紛争はその紛争に関わる関係者全てにとって己の正体を映し出す鏡=リトマス試験紙である。
福島原発事故も日本社会を最も赤裸々に映し出した鏡=リトマス試験紙だった。そこでは、少なくとも3つのことが如実に映し出された。
第1が自然と人間の関係。
原発事故は「社会そのもの」を根底から覆すカタストロフィーだった。チェルノブイリ事故ではヨーロッパ全土があやうく人が住めなくなり、福島原発事故では一時は東日本壊滅を覚悟したほどの惨劇だった。
第2が人間と人間の関係。
ただし、今までの私の学習会の説明によると、それは原発を管理する権力を持つ人間側から見た関係のことだった。原発事故は「社会の人間関係」をいまだかつてないほど根底から覆すカタストロフィーだった。子どもの命・人権を守るはずの者(文科省)が「日本最大の児童虐待」「日本史上最悪のいじめ」の加害者となり、 原発事故の加害責任を負う国が救済者のつらをして、命の「復興」は言わず、経済「復興」に狂騒する。他方で、被災者・被害者は「助けてくれ」「おかしい」という声すらあげられず、経済「復興」の妨害者としてのけ者にされ、迫害される。福島原発事故は加害者が被害者、被害者が加害者とされる「あべこべ」の人間関係を生み出した犯罪だった。
第3として、実はもうひとつの人間と人間の関係があった。
それは原発を管理する権力を持つ人間たちと対立する、そのような権力を持たない大多数の人間側(その中心が被災者・被害者である市民)から見た関係のことだった。
問題は、福島原発事故が映し出した、これらの市民の最大の課題は何だったのか。
思うに、それは被災者・被害者である市民が自らそして家族や仲間の命、健康、暮しを守るために必要な自己決定権を適切に行使することが出来なかったことである。
自己決定権とは自分がどう生きるか、それを決めるのはこの私自身であるという思想に基づき各人に認められた権利である。それは人間が人間として扱われ、人間として生きる上での出発点となる権利である。この根源的な権利は福島原発事故のようなカタストロフィーの時こそ最も必要となる権利だった。しかし、私たち市民の多くは、福島原発事故のあと、事故と政府とマスコミに翻弄され、この大切な自己決定権を適切に行使できなかった。その結果、原発を管理する権力を持つ人間たちがおかした数々の犯罪に抗議し、抗い、これを止めることも出来ず、彼等の犯罪のおかげで、しなくてもよい無用な被ばくと苦痛、苦悩を強いられた。のみならず、自己決定権を行使しなかったため、そうした犯罪と人災をあたかも自分の運命であるかのようにみなし、諦め、そして甘受してしまった。
日本版は、市民の側の「自己決定権を適切に行使できなかった」という誤りに対する痛切な反省の中から生まれた。この痛切な反省に立って、二度とこの誤りをくり返さないために何が出来るか、何をなすべきかを問い続けるもの、それが日本版。