2025年11月5日水曜日

【再開第2話】ライン開通の最初の挨拶(25.11.5)

2025.11.5 水曜日

11:11 こんばんは

11:16 あっ、繋がりました(^_^)。お騒がせしました。

11:21  私の仕事部屋の今日のスナップ。埼玉に戻ると、都会の味気得ない風景で仕事をするのが嫌で、少しでも緑がすぐ脇にあるところを求めて仕事部屋にしています。気分がぜんぜん違います(^_^)。

11:24 以下はあなたからの動画の提案に私なりにどうしたいと考えているかについて、書いたもの、というより書き始めたものです。
https://catastrophe8crime.blogspot.com/2025/11/25115.html

11:28 このブログは、あなたのメールにあった、
>重要なのは、聞いた人が、いかにチェ法日本版が必要かと思えるかというところだと気が付きました。
       ↑
これを受けて、自分たちの周りに、数多くいる「日本版を必要と思っていない人たち」と、日本版を必要と思って行動しようと思っている数少ない人たち、この両者の間にある分断、これをどうやったら埋められるか、それについて語るのがあなたからの動画の提案に応える最良の方法だと思ったのです.


11:29 しかし、これは「言うは易き、行ない難し」で、じゃあ、どうやって、それを語るのか?という肝心なところで、この間(より正確には、ブックレットを出版して以来ずうっと)、思案してきました。

11:36 しかし、ここ1ヶ月の間に、ちょっと新しい出会いがあり、それがヒントになるのではないかと思えたのです。それがブログにも書いた「ソクラテスの問答」です。ソクラテスの対話の特長は、自分の主張から出発しないこと、相手の主張、考えから出発する。その限りで相手との分断はないのです。その上で、相手の考え方をいい加減なところで止めないで、徹底して吟味して、その考えが結局、何に帰結するかを相手と一緒に考え抜く。その限りでは、最後まで相手との分断は起きないのです。しかし、相手は自分の見解が木っ端微塵に破綻したことを思い知らされます。その結果、途方に暮れて、もはや今までとおりの考えではやれなくなる。
こうした批判力、という起爆力が日本版にも必要ではないか、と、まだぜんぜん取り組んできたことがなかったソクラテスの問答を日本版に適用するという課題を、今から検討したいと思っているのです。

11:40  過去にも、日本版の必要性をめぐって日本社会にある分断について、考えたこと、語ったことがあります。以下です。

11:42 180107レジメ(イシグロカズオ.坂本龍一第2稿).doc

11:43 ただし、その時、欠けていたことは、なぜ分断するのか、その分断の構造や理由に対する考察でした。というのは、どうやって、その問題に立ち向かっていいか、分からなかったのです。

11:45 それに対し、今回、一歩前に出たと思うのは、こう考えたことです。
そもそも分断の反対である「了解=分かる」ということの構造や根拠自体がまったく分かっていなかったことです。

11:46  それはどうやって学べるのか.


11:56 今回、その答えをひとつ見出しました。それが、
論理学を通じて学べると。つまり、
或る判断の真偽を知る=分かるとは、その判断を、既に真実と知られている他の判断によって検証・検討される、ということです。
例えば、空に飛んでいるものを見て、「あれはスズメだ」と思うとき、そのとき、人は、「空を飛んでいる『あれ』」がなんであるかを判断するときに、既に知っている「スズメ」という概念と比較して、「あれ」の特徴が「スズメ」のそれに対応していることを観察して、そこから「あれはスズメだ」という判断を下して、あれの正体を知ることになります。
これが私たちが「知る」という時の「知る構造」です。それをもう少し厳密な言い方に言い直すと、
或る命題が真か偽かを判定する方法とは、既に真と知られている別の命題を鏡にして、或る命題の真偽を判定することである。

11:57 これは恐ろしいことです。

12:00 なぜなら、我々が知るときにはこの判定方法を用いるとしたら、
もし鏡にする命題が、実は偽であるにもかかわらず、それを真であるかのように扱ったとき、それは正反対の結果つまり、偽にもかかわらず、真実であるかのように人々を思い込ませることを可能にする。
つまり、これが人々を欺くマインドコントロールの強力な方法(のひとつ)になるからです。

12:11 具体的に言います。
原発事故のとき、放射能を被ばくすることがどのように危険か、或いは危険でないのか、という問題を考えるとき、この未知の問題を吟味にするためには、上に言った通り、我々は、既に真と知られている別の命題を鏡にするしかありません。しかし、その際、その鏡を間違えてしまうと、上に言ったように正反対の結果に導かれます(本当は危険性があるのに、危険性はないと)。典型例が100mSv論です。これは我々の科学技術水準が低すぎて、100mSv以下の被ばくによって健康被害が発生するのかどうかについて明快な知見が得られないということですが、これが曲解されて、100mSv以下の被ばくは心配ないと。その結果、100mSv以下の被ばくに無防備になってしまいます。巷には、こうした偽の命題をあたかも真であるかのように偽装する似非命題が溢れています。それが、私たちを分断させる最大の要因になっている。
分断の構造を「了解の構造」から理解すれば、以上の現象は明快に理解できます。
そして、この「分断の構造」を断ち切るために必要なことも明快に理解できます。100mSv論のようなインチキな命題に代えて、「放射能の危険性」に関する真実を伝える内容の命題に置き換えることです。

12:15 このことは従来からも、取り組んできたのですが、今回、分断の構造と了解の構造の問題を考える中で、改めて、放射能の危険性に関する「正しい命題」(←我々の科学技術のレベの低さのため未解明の問題が山積していますが、それでもなお解明されたこともあるのだから)、それを手掛かりにして「分断の橋を架ける」取組みを、ソクラテスのようにもっと確信をもって取り組む必要があると思ったのです。
最後はちょっと駆け足になりましたが、これが私にとって、ハイエクの「古い真理を⼈の⼼に残そうとするなら新しい⾔葉で何度も⾔い直さなくてはならない」という意味です。
ひとまず、ライン開通の最初の挨拶でした。

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【再開第2話】ライン開通の最初の挨拶(25.11.5)

2025.11.5 水曜日 11:11 こんばんは 11:16 あっ、繋がりました(^_^)。お騒がせしました。 11:21  私の仕事部屋の今日のスナップ。埼玉に戻ると、都会の味気得ない風景で仕事をするのが嫌で、少しでも緑がすぐ脇にあるところを求めて仕事部屋にしています。気分が...