昨年5月に出版したブックレット「私たちは見ている」を再読しようとして、以下のことを思いついた。
再読の目的:それは分断に橋を架けること。
→チェルノブイリ法日本版が必要だと思って行動しようとする少数の人たちとそれ以外の大多数の人たちとの間に横たわる分断に橋を架けること。
その方法:それは馬の周りにまとわりついて刺し続ける虻(あぶ)のようなソクラテス、彼の対話をモデルにする。
→自説からスタートしないで、相手が拠って立つ見解からスタートする。
相手が信ずる命題を真実であると仮定して、そこから対話を始め、
驚異としか言いようのない、倦まずたゆまぬ持続的対話の中で、とうとう矛盾に逢着することを示す。
その結果、相手の命題が虚偽であることが証明され、分断の溝が一歩埋まる。
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もちろん、ソクラテスの対話には以下の通り「限界」がある。しかし、その限界の無力さを嘆く前に、我々は彼の対話の衝撃力にもっと目を見張るべきではないか。つまり、彼の対話によって、人々はそれまで安心立命の中にいた自身の立場が何の根拠もない、不安定なものであることが暴かれた。頭の中がグジャグジャになり、心底、途方に暮れ、もはや二度と前のように安心して眠れなくなった。その状態はそれ以前の無知の中で惰眠を貪る状態より数倍前進したのだ。この震撼すべき事態をもたらした、馬の周りにまとわりついて刺した虻(あぶ)の一撃、そのインパクトに注目すべきだ。
その威力に驚嘆した者だけが初めて、次のテーマ「ソクラテスの対話の限界」をポジティブに捉えることができる。
◆ソクラテスの対話の限界について
しかし、そこからこちらの見解が真実であるかは必ずしも自明ではない。つまり、こちらの見解の真実性が明らかとなり、認識の分断の溝が埋まる訳ではない。ソクラテスも同様。彼も対話を通じて相手の信ずる見解が虚偽だと暴くことまでやるだけで、それ以上について何も分からないという立場を取る。
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当初、この態度が消極的に思えてすこぶる不満だった、なんでもっと積極的に自説の真実性を強調しないのか。なぜ、相手の見解の非真実性の前で立ち止まるのかと‥‥
しかし、のちに、この態度に十分訳があることに気がついた。ソクラテスの態度は「ものが分かる」ということの根本的な性格への理解に根ざしているのではないかと。
つまり、「ものが分かる」というのは実は、真実→真実→真実というひたすら真実について推理を辿っていく中で確かめられるのでは足りない(必要条件だけでしかない)、さらに十分条件を満たす必要があり、それが例えば、虚偽→虚偽→虚偽→破綻というひらすら虚偽について正しい推理を辿っていく中で破綻に至ることを示すソクラテスの批判=証明方法だったのではないか。
つまり、人が「ものが分かる」というのは、真実から辿るだけではなく、虚偽からも辿っていく必要があり、両者が相まって初めて、人は分かったと合点する。ソクラテスは自分の対話は、その「ものが分かる」ための一部を担当しているにすぎないと。
もしそうだとしたら、なぜ、彼は恐るべき熱心さ、執拗さでこの部分に集中して担当したのか。それには彼なりの確信があったはず。それは、虚偽→虚偽→虚偽→破綻を通じてこそ、人々は、ものが分かることを深く体験できるということではないか。現実世界の実情は、得てして、真実を辿る論理は単純だが、どこかリアリティに欠ける。これに対し、虚偽を辿る論理は複雑で、多種多様だが、しかしダイナミックで、その迫力はリアリティを感じさせる。それはヘーゲルが喝破したように、現実世界は運動・生成・変化、しかも「否定の否定」という運動・生成・変化の中にあり、従って、論理的にも、「否定の否定」という論理の中でこそ真実が最もリアリティももって捉えられるのではないか。
以上の教えを、チェルノブイリ法日本版で実践する必要があるのではないか。それによって初めて、 チェルノブイリ法日本版が必要だと思っている少数の人たちとそれ以外の大多数の人たちとの間に横たわる分断に橋を架けることが可能になるのではないか。
厳密には、 チェルノブイリ法日本版が必要だと思って行動しようとする人とそれ以外の人には、次の2つのグループがある。
①.チェルノブイリ法日本版が必要だと思っている人と思っていない人(認識の分断)。
②.チェルノブイリ法日本版が必要だと思って行動しようとする人と必要だけれど実現できるとは思っていない人(実践の分断)。
分断の次元がちがうので、別々に考える必要がある。
以下、①について書く。
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