2024年6月16日日曜日

第2章:「人権」を取り戻すための「チェルノブイリ法日本版」

放射能災害に対する対策は完全に「ノールール」状態

311後、福島原発事故で甚大な「人権」が侵害されているにも関わらず、これを正面から救済する人権保障の法律も政策もないという異常事態にあります。第1章で述べましたが、「人権」とは、命、健康、暮らしを守る権利のことです。

国や福島県は、311後、一人ひとりの被災者の立場に立って「原発事故の被災者の真の救済はいかにあるべきか」というビジョンを示すことができませんでした。それは、311前の日本の法律の内容と思想には大きな欠落があったからです。

「放射能災害というものは起きない」という安全神話を盲信していて、対策はやったとしてもなおざりの儀礼的なものにとどまっていました。本当の意味の原発事故被害対策は完全に没却されていたのです。法律の体系は、放射能災害に対する対策は完全に「ノールール(無法)」状態にあったのです。法律用語で「法の欠缺(けんけつ)」と言います。

その法の思想に関しても、放射能災害以外の、地震や津波の災害における基本理念というのは、被害者は政府の保護や救助の対象として捉えていました。被害者を「人権」の主体として捉えてきませんでした。。つまり人権思想が不在であったことが、311前の大きな特徴です。

問題は、311後にどうなったかということですが、これもまったく変わらなかったと言えます。原発事故が起きてしまった後に国がやったことは、災害救助法の時の理念と同じでした。2012年に全会一致の議員立法で制定された「原発事故子ども被災者支援法」では、原発事故被害者をあくまでも国家の保護・救助の対象として、彼らに対して指示や命令や勧奨等に従うことを求めました。住宅やお金が提供された市民は黙ってありがたく受け取るだけの施しお恵みの対象で、決して「人権」の主体としては扱われませんでした。例え不満であっても従うしかありません。そこは311前と同様なのです。

さらに、「原発事故子ども被災者支援法」では、基本理念で、居住・移住・帰還いずれの選択でも支援し、健康不安の解消に努めるとしました。けれども理念のみが書かれているだけで、具体的な政策の決定を行政府に委ねる法律であったため、役人の手によって日の目を見ないまま廃止同然となりました。

「311後の復興」を願うのであれば、それは、何よりもまず、「チェルノブイリ法日本版」を実現することで、「人権」を取り戻すことが第一です。私たちは、過去に前例のないほどの深刻な人権問題に直面しているのです。


被災者の「人権」を法に定めると国家に責任と義務が生じる


ひとたび被災者の立場を「人権」の主体としてとらえた場合には、事態が一変します。なぜなら「人権」が認められるとき、そこに発生するのは、その権利を守らなければならないというのは国の「法的義務」だからです。市民の「人権」を侵害しない、させないというのが、「人権」に対する国の義務です。ですからお金の給付とか住宅の提供を打ち切る場合も、それが「人権」の侵害にならないかが、厳しく問われることになります。

200年以上前の史上初の人権宣言=ヴァージニア憲法の原点なのですが、同憲法には「政府というものは本来市民の利益のために作られて、それに反する政府は改良し変革しまたは廃止するというのが市民の権利である」とはっきり謳われています。「人権」の主体として認められたときには、市民にこのような権利が発生します。

なぜ「原発事故子ども被災者支援法」では、こういうことが謳われなかったのか。それこそが政府にとっては市民に渡すわけにはいかない権利だったわけで、「権利」の字句は一言も書かれていないのです。同法を作るにあたり、どうしても「権利」という言葉を組み込むことが出来なかったと言われています。

もう少しお話をすると、「原発事故子ども被災者支援法」では、2条の基本理念をはじめとして、この法律には「義務」という言葉もどこにも登場しません。確に3条には「責任」が登場しますが、この法律は、責任が「法的義務」と同じ意味を持つ「法的責任」と取られないように、わざわざ「社会的責任」、つまり「法的責任」ではないことを明記しています。先に述べたように、「原発事故子ども被災者支援法」は、原発事故の救済を国の施策(行政機関の裁量)に全面的に任せました。これでは、被災者は永遠に救済されないと考えます。

これに対して、「チェルノブイリ法日本版」の意義は「人権の本質・原点に立ち返って放射能災害における被災者の救済を再定義する」ということにあります。つまり、原発事故の救済の具体的内容を法律で定め、国は法律の定めた内容通り実行することを義務付けています。基準さえ満たせば、政府の役人に裁量の余地を認めず、全面一律に救済を認めた具体法なのです。

「原発事故子ども被災者支援法」は、「チェルノブイリ法日本版」から乖離しすぎていて、「法の実行」をしても力になりませんし、法の改正は実質的に新法を作るのと同じことです。ならば、私たちにできるのは第4章で紹介する「市民立法」によって、新法を制定することこそ、現実的な道ではないでしょうか。


「人権」は一瞬たりとも途切れることがない

もともと「人権」というのは「日本国民である」とか「福島県民である」とか「ナントカである」ということに基づいて認められる権利ではありません。ただ人であることだけに基づいています。人は唯一無二の存在であるという個人の尊重の理念に立脚したものです。

そして、「人権」は私たちが発見して初めて見出すことができるものと言えます。それは市民運動のためのスローガンでも、道具でも、手段でもない。「人権」自体が、市民運動の目的であり、ゴールである。と同時に、本来、「人権」は市民運動の中にすでに存在しています。

「人権」は、歴史的にはアメリカ革命(アメリカの独立戦争)で出現して、その後普遍的なものとして承認されてきた人類至高の権利です。私たちは、ここに立ち戻って、放射能災害における被災者の救済を再定義しようと提起しています。

「人権」がある場合には、「人権」を侵害しないこと、「人権」の保障を実行すること、 これが国家の唯一の義務になります。しかも「人権」はオギャーと生まれたときから死ぬまで、「切れ目なく、一瞬たりとも途切れることなく」保障される権利です。


国際人権法・社会権規約を直接適用する


「チェルノブイリ法日本版」は「国際人権法」の基本原理を具体化したものです。原発事故の危険は国境なき災害であり、その救済も国境なき救済として、「国際人権法」の課題として取り組む必要があります。

これまで「人権」というと、「今ここで即時に」達成が可能な自由権か、それとも国は政策を推進する政治的責任を負うにとどまる社会権かのいずれかでした。しかし、1966年に制定された国際人権法・社会権規約の採択では、「もうひとつの社会権」として、新しい権利概念の導入がありました。

それは、国の経済力や資源などの客観的条件を踏まえ、権利の完全な実現にむけて「斬新的に達成するため」、利用可能な資源を最大限に用いて、立法その他で適切な「措置を取る」ことを法的な責任として認めました。義務性急に権利の実現を図ろうとして失敗した過去の歴史的経験を反省し、私たちの身の丈にあったプロセスを提案したものと言えます。

「チェルノブイリ法日本版」において、ゴールは被災者の命、身体、暮らしの保障です。ただし、そこに至る具体的な取り組みはゴールの実現に向けて、「斬新的」に達成するように、目の前の小さな取り組みを丁寧に、かつ熱心しに取り組むというプロセスです。

この考え方の根底にある理念こそが、民主主義と言えます。制度=ゴールと考え、「制度ができたら、はい、おしまい」と考えるのではなく、民主主義にはゴールはない、あるのは不断に努力し改善していく無限のプロセスだという考え方です。これは丸山真男氏が唱える「永久革命としての民主主義」に共鳴するもので、斬新的達成を永続的に目指す社会権と言えます。

この規約に照らせば、経済力のある日本では、ただちに被災者の「避難の権利」「移住の権利」さらに「健康に暮らす権利」が認められなければならないことになります。

国際人権法による避難者の人権保障で、この章の冒頭で述べた法律体系の「ノールール(無法)」状態を克服したら、「チェルノブイリ法日本版」が見つかることを、国も「確認」しろという多くの市民の声が高まれば、これはもう無視できなくなるでしょう。最後の決め手は「市民主導の世論喚起」なのです。


国際人権法にある「人民の自決の権利」

さらに、もう一つ大切なのは、国際人権法の二大柱の一つ社会権規約の第一条には「人民の自決の権利」が謳われていることです。

第1条【人民の自決の権利】

すべての人民は、自決の権利を有する。この権利に基づき、すべての人民は、その政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する。

そして、この「個人の自決権」は、日本国憲法の柱である「国民主権」につながります。311後、市民が各自、放射能の危険から避難するかどうかを決定する行為を基礎付けるのに「個人の自決権」という原理が有力でしたが、この行為は同時に「国民主権」という原理からも基礎づけられるものだからです。

「個人の自決権」とは、「自分の生き方、身の処し方、暮らし方は自分自身の選択で決定することができ、その選択に他人や権力が介入することは許されない」というものです。そこで、「自分の生き方」とは自分自身の生き方であるのは当然ですが、それにとどまらず、その範囲が広がって、自分の家庭の生き方、自分の住む地域の生き方、自分の住む国の生き方も、同様に自己決定して決めていくものであることを含んでいます。

もっとも、そこでは、同じく自己決定権を有する対等な他者との合意に基づき、その集団の決定をしていく必要があるため、否応なしにその意見調整が必要になってきますが、原理はあくまでも、そこに参加する個々人の自己決定を基礎にして、その団体の意思が決定されると考えることができます。それが個人の自己決定権を基礎にした「市民の自己統治」であり、これが国レベルでいうと「国民主権」ということになります。

「国民主権」に基づいて、国民からの信託により政治を担当している国や県の役人は、避難という重大な問題で「自己決定」に迫られた市民に対し、彼らに最も納得のいく、最も適切な自己決定が出来るように、必要かつ適切な情報を可能な限り提供する義務を負っていました。

これは言い換えれば、311直後の時点で、国や県の役人が市民に説明責任を負っていたということです。しかし、現実には、311直後は言うに及ばず、その後も今日現在まで終始一貫して、国や県の役人は市民に負っている説明責任をまったく果そうとしていません。従って、説明責任を果す上で必要な情報提供も行わず、その結果、私たち市民は、311直後も、そして現在でも、放射能問題に対する「自己決定」を下すことが困難であり、ずっと「自決の権利」を奪われたままでいるのです。「自決の権利」を奪われたままでいるということは、「国民主権」の主権者の地位をずうっと奪われたままでいるということです。


国際人権法が311後の日本社会を変える



2023年10月25日、最高裁判所大法廷はとても大切な決定をしました。トランスジェンダーの法律上の性別認定の条件として断種手術を課す国内法を違憲と判断。この決定の根拠として、 「国際人権法」に反しているとしたと明言したのです。

もともと法律には「下位の法令は上位の法令に従い、これに適合する必要がある」という掟があります。例えば、交通規制の法律で「車は左側通行」と決めたら、その下位の法令は全てこれに従って定めらます。それが守られなかったら法体系は秩序が保たれず、機能しない。当然の掟です。

先に述べた出た最高裁大法廷の決定もこの当然の掟に従ったまでのことです。今回、法律の上位の法令として「国際人権法」があることを正面から認めただけです。日本で国際人権法が法律の上位の法令であることを、今さら言うまでもないことですが、この当たり前のことを、今回やっと初めて認めたのです。(この掟のことを序列論あるいは上位規範(国際人権法)適合解釈と言います。)

重要なことは、最高裁がこの大法廷決定で使ってしまったカード、「日本の法令は国際人権法に適合するように解釈しなければならない」ということ、この原理の適用は性同一性の法令と事件だけにとどまらないということです。

法規範は普遍的な性格を持ち、それゆえ、この上位規範(国際人権法)適合解釈という原理は、それ以外の法令にも、またそれ以外の事件にも適用される。その結果、どういうことになるか。

第1に、この原理により、日本のあらゆる法令が国際人権法の観点から再解釈されることになる。これを本気で検討したらどういうことになるか。それまで鎖国状態の中にあった日本の法令は、幕末の黒船到来以来の「文明開化」に負けない「国際人権法化」にさらされ、すっかり塗り替えられることになります。

第2に、この原理は福島原発事故関連のすべての裁判に適用されることになります。これを本気で検討したらどういうことになるか。その時、福島原発事故関連のすべての裁判のこれまでの判決はみんなひっくり返る可能性があります。


欠缺の補充を上位規範である憲法や国際人権法に基づいて、これらに適合するように補充する必要があり、もしこれを承認するのであれば、欠缺の補充の結果、国際連合人権委員会(当時)が定めた「国内避難に関する指導原則」等に示された被災者の人権保障によって、日本の法体系は全面的に補充されることになります。この全面的に補充された法規範、これをトータルに示したのが、他ならぬ「チェルノブイリ法日本版」なのです。




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第2章:「人権」を取り戻すための「チェルノブイリ法日本版」

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