2025年12月5日金曜日

【再開第5話】私にとって人権の二歩目:それは人権侵害に対し、「おかしい!」と声をあげ、抵抗すること、そのときに初めて人権が存在すること(25.12.5)

 以下は、私にとって人権の最初の一歩を経験したあと、二歩目の経験をしたことについて語るもの。5年前の2020年11月、新老年としての「過去の自分史」の1つを再定義・再発見したもの(>当時のブログ記事)。

 *************************** 

四半世紀前、埼玉県で「I LOVE 憲法」という市民によるミュージカルが企画実施され、私の妹家族も参加し、母子ともすっかりはまっていた。その練習風景を見に行っていた折り、主催者から私に、法律家として「I LOVE 憲法」について何か喋って欲しいと言われ、きゅうきょ、以下のことを話した。

私の妹はこれまで専業主婦でずっと家にいました。しかし、そのうちに、何だかこれはおかしい、いつも家に縛り付けられるのではなく、私にももっと私なりの生き方があったもいいのではないかと思うようになりました。その中で、彼女は、この「I Love 憲法」のミュージカルを見つけました。ここは彼女にとって、新しい生き甲斐の場だったのです。
しかし、彼女の夫は、これを必ずしも歓迎しませんでした。家に、自分の元に置いておきたかったのです。しかし、彼女は、私にも自分なりの生き甲斐を求める権利があると思いました。だから、夫の反対を押し切って、それに抵抗して、ミュージカルの練習場に来たのです。
その話を聞き、私は、これが憲法(人権)なのではないかと思いました。憲法では、いかなる個人にも、その人なりの幸福追求権を保障しています。しかし、それは、抽象的な、絵に描いた餅ではなく、私の妹の場合、夫の反対に抵抗してみずからこの場に来るという行為を通じて初めて実現されるものでした。だから、彼女は、この場に来るという行為を通じて憲法を実現し、憲法を愛することを実行している、つまり、「I Love 憲法」そのものを実行していると思ったのです。

人々は「I Love 憲法」と口にします。しかし、憲法を愛するというのは一体どういうことでしょうか。憲法を愛するというけれど、そもそも憲法は目に見えるものでしょうか、或いは、手で触ることができるものでしょうか。もし憲法が六法全書という紙に書いてあると言うのでしたら、それならば、その紙を燃やしてしまえは、憲法はなくなるものでしょうか。それとも、六法全書を燃やしても憲法はなお存在するというのであれば、それはどのように存在しているものでしょうか。

その答えは、憲法(人権)とは、人権侵害という事実があったとき、その事実に対して、「おかしい!」と声をあげること、抵抗すること、そのときに初めて憲法がその人を守ってくれる、つまり、その抵抗という姿勢、構えをする限りで、憲法もまた存在するのだということです。
だから、人権侵害の事実があったとき、その事実に対して、「おかしい!」と声をあげないとき、抵抗をしないとき、憲法もまた存在しなくなるのです。
この意味で、憲法は私たちの生きる姿勢、構えそのものだということです。
そのことを、私の妹は、夫の反対に押し切ってみずからこの場に来るという抵抗を通じて憲法を実現し、憲法を愛することを実行したのです。この点で、彼女は「生きる人権」、まさに「I Love 憲法」に相応しい存在です。

‥‥とっさの思いつきでこの話をしたら、予想外にも、参加者の人たちから拍手喝さいを浴びた。
想定外の拍手を聞きながら、それまでひそかに考えてきた「人権とは理不尽に抵抗するという私たちの生きる姿勢、構えそのもののこと」という自分の考えがこの人たちには伝わった、これで間違っていなかったとこの時、確信した。

  *************************** 

5年前、この経験を思い出して、こう書いた。

311後に、再び、この時の記憶がよみがえってきた。
それは、311後の私たちの行動とは、311後の日本社会の前代未聞の理不尽さに抵抗せずにおれなかった抗議のアクションであり、そのエッセンスは人権を自ら実行することと一直線にリンクしたから。このリンクを通じ、私は、このときの自分の経験の意味を味わい、改めて自信を持った。と同時に、311後の自分たちの行動の意味も新たに与えられ、新たな確信を与えられた。

新老年とは、自分の青年時代、中年時代の自分史の再定義・再発見でもある。

そして、チェルノブイリ法日本版とは、人権の再定義・再発見である。

【再開第4話】私にとって人権の最初の一歩:それは理想主義でも現実主義でもない。それはもうひとつの理想主義&現実主義として出現した(25.12.5)

 以下は、【再開第3話】ブックレットに掲げる人権は理想主義でも現実主義でもない。それはもうひとつの理想主義&現実主義 について、自身の体験に即して語るもの。

20代すべてを司法試験の受験勉強で費やしてしまった体験から、合格した時、私はすっかり「すれっからし」の現実主義者になっていた。同期の合格者の、憲法や人権のことを強調する人たちの話は私には何か宙に浮いた話、絵空事、空理空論にしか聞こえず、まったく冷ややかに眺めていた。
そして、法律家としてやっていくためには、とにかく法律の世界で通用するような実力を身につけるしかないと実力主義の現実主義が不動の信念だった。その信念に従って、自分に一番合ったと思われた著作権法の世界で実力を身につけようと励んできた。その努力の甲斐があってか、著作権法の世界で、少しずつ仕事が順調に開けてきたし、著作物(作品)を作るクリエーターたちとの交流も進んだ。その順風満ぷうに見えた仕事の中で、私が見たのは、著作権業界で、クリエーターたちの置かれている悲惨な環境だった。クリエーターたちを食い物にして企業が金儲けするという古典的な資本主義の搾取の構造だった(今のアマゾンやgoogleなどと変わらない)。
そこで、私の現実主義は理想とのあからさまなギャップに直面することになり、そのギャップをどうやって埋めることが出来るのか、自分なりに考え、答えが出ないまま悩むようになった。その悩みの中で、或る時、次の現実に気がついたーー著作権ビジネスの中で価値を創造しているのはクリエーターたちだ。彼らには、その価値創造に相応しく、人間として尊重される資格があるはずだ、それが人権ではないかと。
この発見は思いがけないものだった、そして新鮮だった。
それまで、司法試験合格後の司法修習生時代に、同期の仲間から憲法や人権の話をいくら吹き込まれても、ひとつも心に響かなかったのに、この時、生まれて初めて人権が心に響いたからだ。なにがそうさせたのか。
それは、理不尽な人権侵害の労働環境に置かれているクリエーターたちの現実を知り、その現実を何とかできないのだろうかと悩む中で、初めて憲法の人権が私の前にその姿を現したのだ。このとき、私の前に現れた人権は私にとって疑いようのない実在のものだった。
それは「イヌも歩けば棒にあたる」みたいに、仁義なき世界を彷徨する中で人権に出会ってしまったという、一種の回心を経験したようなものだった。
これ以降、人権は私の中では疑いようのない実在となった。

つまり、現実に存在するもの以外に、理想もイデオロギーも信じないと固く決めていた私がそのスタイルを押し通していった結果、それまで思ってもみなかった形で、人権が「現実に存在するもの」として私の前に現れた。それは理不尽な現実と向き合った末に、その理不尽な現実を乗り越える力をもった実在する物として、人権というものが存在することを実感した。
それは全く不意打ちの思いがけない経験だった。今まで頭から信じなくて一笑に付していた人権に、今度は、これこそ自分が最も信頼すべきものであると今までとは正反対の見方をするようになったからだ。

しかし、これは最初の一歩で、ここからまた次の一歩を踏み出すことはそう容易なことではなかった(ここではその詳細は省く)。ともあれ、私にとって、理想主義とは、現実主義を突き詰める中から、現実主義の限界を突破するものとして、実在する理想のひとつとして人権が突然目の前に現れ、その体験を受け入れることだった。これが私にとっての理想主義と現実主義の2つの振り子の間でひとつの折合いを見つけた最初の体験だった。


 

【再開第3話】ブックレットに掲げる人権は理想主義でも現実主義でもない。それはもうひとつの理想主義&現実主義(25.12.5)

ブックレット「私たちは見ている」に書かれた人権について、その編者である私はどう考えているのか。
普通であれば、理想を追求する理想主義と現実だけを追及する現実主義のどちらなのか、と問いかけるだろう。それに対しては、私はどちらでもないと答える。ならば何なのか、という問いに対しては、私は「もうひとつの理想主義&現実主義」と答える。以下はその答えの意味とその理由についてである。

 「もうひとつの理想主義&現実主義」とは現実主義的でありながら、なおかつ同時に理想主義を追求するあり方という意味。
ブックレットに掲げた「政治・政策から人権へのシフト」という立場は決して、単なる理想でもイデオロギーでもない。つまり、人権を語るとき、それは単なる理想でもイデオロギーでもなく、実在する或る力として語っている。
しかし、理想主義やイデオロギー主義に染まっている人にはそれがなかなか理解されない。同時に、理想主義やイデオロギー主義に反対する現実主義のリアル・ポリティックスの立場の人にもそのことはなかなか理解されない。

人権は人類の政治の歴史の中で、最初は小さなともし火のような存在だったのが、様々な試練の中で、「long and winding road」の道程を辿りながら、そのともし火は消滅するどころか、じわじわとその勢いを強め、現実の政治を動かす力のひとつとして成長してきた。つまり、政治を動かすものとして様々な力(当初は暴力の力、金の力が最強のように思われていたが、しかし、だんだん、それ以外にも科学の力=真理の力、美の力、愛の力、そして人権の力などが少しずつ成長してきた)が存在するが、そのひとつとして人権は、紛れもなく客観的に存在するものなのだ。だから、政治をリアルに客観的に捉えるリアル・ポリティックスの立場に立ったとしても、そこでは人権の力を冷静に正当に認識することが必要である。リアル・ポリティックスの立場から「理想主義者・イデオロギー主義者が人権を万能のもの、人権至上主義的に主張するのをおかしい」と批判するのはそれなりに当たっているとしても、だからといって、「人権の力なぞ客観的に存在しない幻想にすぎない」として葬り去るのはぜんぜんリアルで(科学的でも客観的でも)なく、リアル・ポリティックスの名に反する。
あくまでもリアル・ポリティックスに立つんだったら、まさに、人類の歴史が形成してきた「人権の力」を冷静に正当に認識すべきである。
それがブックレットのスタンス。

そのことを、リアル・ポリティックスの代名詞みたいにされているキッシンジャーのような権力者たちではなく、リアル・ポリティックスの考えに深く影響されている市民運動の人たちに対して訴えたいと思い、訴える必要があると思った。それはブックレットばかりではなく、日本の市民運動にとって、とても重要なポイントだからである。

【再開第5話】私にとって人権の二歩目:それは人権侵害に対し、「おかしい!」と声をあげ、抵抗すること、そのときに初めて人権が存在すること(25.12.5)

 以下は、私にとって人権の最初の一歩を経験したあと、二歩目の経験をしたことについて語るもの。5年前の2020年11月、新老年としての「過去の自分史」の1つを再定義・再発見したもの(> 当時のブログ記事 )。  ***************************  四半世紀前、...