2025年12月5日金曜日

【再開第4話】私にとって人権の最初の一歩:それは理想主義でも現実主義でもない。それはもうひとつの理想主義&現実主義として出現した(25.12.5)

 以下は、【再開第3話】ブックレットに掲げる人権は理想主義でも現実主義でもない。それはもうひとつの理想主義&現実主義 について、自身の体験に即して語るもの。

20代すべてを司法試験の受験勉強で費やしてしまった体験から、合格した時、私はすっかり「すれっからし」の現実主義者になっていた。同期の合格者の、憲法や人権のことを強調する人たちの話は私には何か宙に浮いた話、絵空事、空理空論にしか聞こえず、まったく冷ややかに眺めていた。
そして、法律家としてやっていくためには、とにかく法律の世界で通用するような実力を身につけるしかないと実力主義の現実主義が不動の信念だった。その信念に従って、自分に一番合ったと思われた著作権法の世界で実力を身につけようと励んできた。その努力の甲斐があってか、著作権法の世界で、少しずつ仕事が順調に開けてきたし、著作物(作品)を作るクリエーターたちとの交流も進んだ。その順風満ぷうに見えた仕事の中で、私が見たのは、著作権業界で、クリエーターたちの置かれている悲惨な環境だった。クリエーターたちを食い物にして企業が金儲けするという古典的な資本主義の搾取の構造だった(今のアマゾンやgoogleなどと変わらない)。
そこで、私の現実主義は理想とのあからさまなギャップに直面することになり、そのギャップをどうやって埋めることが出来るのか、自分なりに考え、答えが出ないまま悩むようになった。その悩みの中で、或る時、次の現実に気がついたーー著作権ビジネスの中で価値を創造しているのはクリエーターたちだ。彼らには、その価値創造に相応しく、人間として尊重される資格があるはずだ、それが人権ではないかと。
この発見は思いがけないものだった、そして新鮮だった。
それまで、司法試験合格後の司法修習生時代に、同期の仲間から憲法や人権の話をいくら吹き込まれても、ひとつも心に響かなかったのに、この時、生まれて初めて人権が心に響いたからだ。なにがそうさせたのか。
それは、理不尽な人権侵害の労働環境に置かれているクリエーターたちの現実を知り、その現実を何とかできないのだろうかと悩む中で、初めて憲法の人権が私の前にその姿を現したのだ。このとき、私の前に現れた人権は私にとって疑いようのない実在のものだった。
それは「イヌも歩けば棒にあたる」みたいに、仁義なき世界を彷徨する中で人権に出会ってしまったという、一種の回心を経験したようなものだった。
これ以降、人権は私の中では疑いようのない実在となった。

つまり、現実に存在するもの以外に、理想もイデオロギーも信じないと固く決めていた私がそのスタイルを押し通していった結果、それまで思ってもみなかった形で、人権が「現実に存在するもの」として私の前に現れた。それは理不尽な現実と向き合った末に、その理不尽な現実を乗り越える力をもった実在する物として、人権というものが存在することを実感した。
それは全く不意打ちの思いがけない経験だった。今まで頭から信じなくて一笑に付していた人権に、今度は、これこそ自分が最も信頼すべきものであると今までとは正反対の見方をするようになったからだ。

しかし、これは最初の一歩で、ここからまた次の一歩を踏み出すことはそう容易なことではなかった(ここではその詳細は省く)。ともあれ、私にとって、理想主義とは、現実主義を突き詰める中から、現実主義の限界を突破するものとして、実在する理想のひとつとして人権が突然目の前に現れ、その体験を受け入れることだった。これが私にとっての理想主義と現実主義の2つの振り子の間でひとつの折合いを見つけた最初の体験だった。


 

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