2024年2月22日木曜日

生きるーー原発事故後の社会を生きるーー

 或る時、人からこう言われた。

2011年から、ずっとフクシマ後の社会運動を見てきて、分断と行き詰まりの中で、このチェルブイリ法日本版を作ろうという運動が、私にとっては唯一の希望に見えました。」

この言葉は何を意味しているのだろうか。

実は私も、311からだいぶ経って、社会運動をやっている人たちを知る機会が増えるにつけ、真面目で一生懸命な人ほど疲弊してる、疲れ切ってるように見え、その訳をずっと考えて来たが、よく分からなかった。疲弊している当人たちの意識の上では原子力ムラなどの権力の横暴に疲れたと感じていたようだったが、しかし今、それはちがうのではないかと思うようになった。彼らが疲弊する本質は「政治」つまり人々を「敵と味方に仕訳」する政治的思考に翻弄され、思考が停止し、人々を分断させる政治的運動に消耗し、疲弊したんではないかと思い直すようになった。
そしたら、ガンジーやキング牧師やマンデラがおこなってきたのは、人々を分断させる政治的運動の延長ではなく、それとは別次元の全く新しい運動=人権運動をやろうとしたんぢゃないか、と気づいた。だから、彼等は別に社会主義政権を作ろうともしなかった。宗教、肌の色を越えた人々の「和解=共存」を強く訴えた彼等の姿から、これは過去に前例のない、「敵と味方」を「
和解=共存」に変換する人権運動への挑戦なんだと、とても新鮮、身近に感じられるようになった。

人権運動には原理的には賛成も反対もない。それがチェルノブイリ法日本版。
他方、政治運動は原理的に、人々を賛成と反対、敵と味方に仕訳して、自分の主張を認めさせる。それが今の社会運動。
日本版の意味はこうした政治運動を
和解=共存」に変換する人権運動への挑戦にあるのではないか、冒頭の人の言葉を聞いて、そう思った。
それは新たな気づきであり、これが
とても重要だと感じている。一方で、今ほど、社会運動が思考において硬直化、思考停止から脱却し、行動において分断化、孤立化から脱却することが切実に求められている時代はないのに対し、他方で、その脱却を可能にする手がかりが人権だと思うから。人間は人間として生まれたことに最高の価値があり、どんな境遇・条件であろうとも同じ人は二人といない、そうした個性の究極的価値という考え方にもとづいて、つまりひとえに個々人の「人間性」を根拠として、そこから論理必然的に直接に発生したもの、それが「人権」。だから、人権においては全ての人の間に優劣をつけることを許さない。その結果、人権の原理的な帰結は「共存」であり、すべての人に対するリスペクト(尊重)である。
とはいえ、日本政府も人権を賛美して、人権教育をうたう。しかし、人権が人権たる所以、あるいは人権が真価を発揮する瞬間というのは、美しい言葉で語られた人権を人々が素直に受け入れる瞬間などではなく、むしろその反対の、唾棄すべき不条理、理不尽な現実を前にして、人々がどうしてもこの現実を受け入れるわけにはいかないと抵抗の叫びをあげる瞬間に人々の口から発せられる「不条理な現実を否定する言葉」、それが人権である。
チェルノブイリ法日本版は、人々の命、健康、暮しを大切にするという当たり前の願いを実現するために、「敵と味方に仕訳」する政治運動を和解=共存」に変換する人権運動に挑戦する市民が火のような情熱を注いで取り組む場である。

 

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第3章:私たちのビジョンー 「チェルノブイリ法日本版」は日本社会に何をもたらすのかーー

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