もし、311までに、或いはせめて311から数年でチェルノブイリ法日本版が制定されていたなら、Xは死なずに済んだと思う。Xは福島原発事故のあと政府が勝手に線引きした強制避難区域の網から漏れ、谷間に落ちた。本人には何の責任もないのに、たまたま谷間に落ちてしまった。その結果、救済されない中、「命をかけて子どもを守る」と決断して自主避難を選択し努力してきたが力尽きてしまった。チェルノブイリ法日本版は、Xのような「迷えるひとりの市民」のためにあるのです。
2、先ごろ、ドキュメンタリー映画[2]で、太平洋戦争末期の沖縄戦のさなか、沖縄県知事が沖縄県庁を解散すると宣言したことを知りました。解散! まっこと、非常事態のさなかに組織は解散もあり得る、と。沖縄県庁の解散のとき、その知事が残した遺言が「生きろ」、そして「今度こそ自尊自愛の社会を作ろう」。チェルノブイリ事故から5年後、ソ連は解散しました。その解散の直前に廃墟の中から誕生したのが「生きろ」を形にしたチェルノブイリ法。だから、日本の原発事故という非常事態の下で、「生きろ」を形にしたのがチェルノブイリ法日本版。311後の日本社会を解散して、今度こそ自尊自愛の社会を作ろうという誓いを形にしたのがチェルノブイリ法日本版です。
3、沖縄戦に巻き込まれた沖縄の市民は、程度の差はあれ、自分たちは本土防衛の盾にされた、捨てられたと感じています。そして、「本土防衛に殉ずる」という思想は沖縄戦で終りませんでした。今なお脈々と厳然と生きています。福島原発事故に巻き込まれた福島の市民もまた、程度の差はあれ、自分たちは本土防衛の盾にされた、捨てられたと感じています。福島原発事故によって日本経済に支障を来してはならないと東北新幹線も東北自動車道も止めなかった。その一方で、福島県内の学校だけ安全基準を20倍に引き上げて、福島県内の学生が県外に集団避難するのを止めたからです。福島県民は子どもだけでなく、大人も公務員もみんな「本土防衛に殉ずる」思想を押し付けられたのです。この思想を解散し、「迷える市民ひとりひとりを救済する」という思想に置き換えたのがチェルノブイリ法日本版です。
4、再び、2017年自死した自主避難者Xについて。Xは日本政府の線引きにより強制避難区域の網から漏れてしまいました。でも、ひとたび世界に目を向けたとき、国際人権法の人権概念「国内避難民」によると、Xは「国内避難民」に該当する。日本政府も否定しません。
2002年、国外に移住した原爆の被爆者が起こした裁判で、大阪高裁は、判決で
「被爆者はどこにいても被爆者という事実を直視せざるを得ない」
と言いました。この普遍的な真理は福島原発事故の被災者にも当てはまります。つまり、
「国内避難民は、どこから避難しても国内避難民」
だから、強制避難区域外から自主避難したXも「国内避難民」として人権が保障されるのです。しかし、現実に、Xは「国内避難民」として国や福島県から守られなかったのです。そもそも国や福島県は自主避難者の数すら把握しなかったのですから。
この人権侵害をただし、「迷えるひとりの市民」を救うのがチェルノブイリ法日本版です。
5、福島原発事故で県外に避難した自主避難者のうち国から提供された仮設住宅(国家公務員宿舎)に入居した人たちは、その後、そこから出て行くように求められ、退去できない自主避難者は退去の裁判にかけられています。ところが、その裁判を起こしたのは家主の国ではなく、入居と無関係な福島県です。しかも、福島県の主張は単なる「不法占拠者の立退き」問題の一点張り。自主避難者は何も好き好んで国家公務員宿舎に留まっているのではありません。多くが退去して新たな生活をスタートする経済的基盤が持てないために、やむなく留まっているのです。なぜなら、国も福島県も、自主避難者が避難先で生活再建できるように、就労支援をはじめとする必要な支援を何もせず、生活再建をもっぱら避難者自身の責任に押し付けているから。そもそも、福島から見も知らない都会に命からがら避難してきて、その都会でどうやって生活再建をしていったらよいのか、途方に暮れるのが当然ではないでしょうか。避難者はアルバイトや非正規労働者として日々の生活をしのぐのが精一杯であり、それ以上、経済的に自立できるだけの安定した仕事に就くことはまず不可能ではないでしょうか。でも、国も福島県もそんなことは百も承知で、自主避難者の生活再建を突き放しているのです。そして、2017年4月が来たら「はい、退去の時間です」と言い放って、言うことをきかないと裁判にかける。「迷える市民」を路頭に迷わせることしかしないのです。
そこには、国や福島県にひとりひとりの被災者の立場に立って「原発事故の被災者の真の救済はいかにあるべきか」というビジョンが何もありません。そして、これが311後の日本社会の縮図ではないでしょうか。そして、これが311後の私たち市民の不幸の源ではないでしょうか。
半世紀前、公害が日本社会を覆い尽くした当時、私たちの先人は公害日本を解散し、力を合わせてその再生に取り組み、命、環境を守りました。そのおかげで、今の私たちの命と環境があります。それを思い出し、今、311後の日本社会を解散して、ひとりひとりの被災者の立場に立って「原発事故の被災者の真の救済はいかにあるべきか」というビジョンに取り組むときではないでしょうか。これと正面から取り組むのがチェルノブイリ法日本版です。
6、私たちは、普段何気なく、太平洋戦争の惨禍を経て、日本は民主主義の憲法を制定し、人権が保障されるようになったと思っています。でも、そもそも憲法が人権を保障するとはどういうことでしょうか。それは六法全書の憲法に、人権を保障すると書かれていることでしょうか。ちがいます。書かれているだけでは足りないのです。人権を保障するかどうかは、現実に、人権侵害が発生したとき、それに対する日本社会の対応によって決まるのです。
もし、人権侵害が発生しても日本社会がその侵害の現実に目を背けるとき、たとえ憲法の条文に「人権を保障する」と書かれていても、それは絵に描いた餅にとどまります。半世紀前、公害が日本を覆い、市民の命、健康、暮しを脅かした時、市民が立ち上がり、四大公害裁判をはじめとする様々な市民運動の中で、自分たちの命、健康、暮しを守った。この行動が人権を保障するという意味です。だから、311で未曾有のカタストロフィに遭遇した日本社会が、再び、原発事故により目に見えない形で市民の命、健康、暮しが脅かされているとき、この見えない試練にどう立ち向かうか、それが今、問われているのです。それで、人権を保障したという憲法が死文化するかどうかが決まるのです。その決め手となるのは半世紀前と同様、私たちひとりひとりの市民の行動であります。被災者「である」こと、避難民「である」だけでは足りない。被災者として、避難民として行動「する」ことが求められています。「である」ことから「する」ことに一歩踏み出すことが求められています。その一歩を踏み出すとき、私たちの旗となるのがチェルノブイリ法日本版です。
7、原発事故後の日本社会を生きるとはチェルノブイリ法日本版を実現することです。
(24.1.28)
[1] NHK「何が彼女を追いつめたのか 〜ある自主避難者の死〜」(2023年8月8日放送) https://www.nhk.jp/p/ts/GP9LGJJN9N/episode/te/KZQ2KL13KJ/
[2] 「生きろ 島田叡ー戦中最後の沖縄県知事」http://ikiro.arc-films.co.jp/
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ブックレット 目次(案)
はじめに
生きる--原発事故後の社会を生きる--
第1章:なぜ「チェルノブイリ法日本版」が必要なのか
「チェルノブイリ法」とは?
なぜ「日本版」が必要だと考えるのか
万が一の際、すべての人を救う救済法を作りたい
第2章:どう実現させるのかー市民立法を目指す
新しい酒(「チェルノブイリ法日本版」)は新しい革袋(市民立法)に盛れ
『市民が育てる「チェルノブイリ法日本版」の会』の結成
「情報公開法」制定に学ぶ
ICANに学ぶ
「生ける法」―市民立法のエッセンス
第3章:「人権」を取り戻すための「チェルノブイリ法日本版」
放射能災害に対する対策は完全に「ノールール」状態
被災者の「人権」を法に定めると国家に責任と義務が生じる
「人権」は一瞬たりとも途切れることがない
国際人権法・社会権規約を直接適用する
国際人権法が311後の日本社会を変える
第4章:私たちのビジョンー「チェルノブイリ法日本版」は日本社会に何をもたらすのかを考えるか
理不尽に屈しない
自分のいのちの主人公になる
国際人権法にある「人民の自決の権利」
市民参加型の公共事業を創設する
第5章:「命を守る未来の話」―ティティラットさんに聞く
「チェルノブイリ法日本版」があったらー15歳の私から
「チェルノブイリ法日本版」がないための苦しみ
実践のための手引き
あとがき
条例案サンプル
執筆・編集者紹介
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