2025年12月5日金曜日

【再開第5話】私にとって人権の二歩目:それは人権侵害に対し、「おかしい!」と声をあげ、抵抗すること、そのときに初めて人権が存在すること(25.12.5)

 以下は、私にとって人権の最初の一歩を経験したあと、二歩目の経験をしたことについて語るもの。5年前の2020年11月、新老年としての「過去の自分史」の1つを再定義・再発見したもの(>当時のブログ記事)。

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四半世紀前、埼玉県で「I LOVE 憲法」という市民によるミュージカルが企画実施され、私の妹家族も参加し、母子ともすっかりはまっていた。その練習風景を見に行っていた折り、主催者から私に、法律家として「I LOVE 憲法」について何か喋って欲しいと言われ、きゅうきょ、以下のことを話した。

私の妹はこれまで専業主婦でずっと家にいました。しかし、そのうちに、何だかこれはおかしい、いつも家に縛り付けられるのではなく、私にももっと私なりの生き方があったもいいのではないかと思うようになりました。その中で、彼女は、この「I Love 憲法」のミュージカルを見つけました。ここは彼女にとって、新しい生き甲斐の場だったのです。
しかし、彼女の夫は、これを必ずしも歓迎しませんでした。家に、自分の元に置いておきたかったのです。しかし、彼女は、私にも自分なりの生き甲斐を求める権利があると思いました。だから、夫の反対を押し切って、それに抵抗して、ミュージカルの練習場に来たのです。
その話を聞き、私は、これが憲法(人権)なのではないかと思いました。憲法では、いかなる個人にも、その人なりの幸福追求権を保障しています。しかし、それは、抽象的な、絵に描いた餅ではなく、私の妹の場合、夫の反対に抵抗してみずからこの場に来るという行為を通じて初めて実現されるものでした。だから、彼女は、この場に来るという行為を通じて憲法を実現し、憲法を愛することを実行している、つまり、「I Love 憲法」そのものを実行していると思ったのです。

人々は「I Love 憲法」と口にします。しかし、憲法を愛するというのは一体どういうことでしょうか。憲法を愛するというけれど、そもそも憲法は目に見えるものでしょうか、或いは、手で触ることができるものでしょうか。もし憲法が六法全書という紙に書いてあると言うのでしたら、それならば、その紙を燃やしてしまえは、憲法はなくなるものでしょうか。それとも、六法全書を燃やしても憲法はなお存在するというのであれば、それはどのように存在しているものでしょうか。

その答えは、憲法(人権)とは、人権侵害という事実があったとき、その事実に対して、「おかしい!」と声をあげること、抵抗すること、そのときに初めて憲法がその人を守ってくれる、つまり、その抵抗という姿勢、構えをする限りで、憲法もまた存在するのだということです。
だから、人権侵害の事実があったとき、その事実に対して、「おかしい!」と声をあげないとき、抵抗をしないとき、憲法もまた存在しなくなるのです。
この意味で、憲法は私たちの生きる姿勢、構えそのものだということです。
そのことを、私の妹は、夫の反対に押し切ってみずからこの場に来るという抵抗を通じて憲法を実現し、憲法を愛することを実行したのです。この点で、彼女は「生きる人権」、まさに「I Love 憲法」に相応しい存在です。

‥‥とっさの思いつきでこの話をしたら、予想外にも、参加者の人たちから拍手喝さいを浴びた。
想定外の拍手を聞きながら、それまでひそかに考えてきた「人権とは理不尽に抵抗するという私たちの生きる姿勢、構えそのもののこと」という自分の考えがこの人たちには伝わった、これで間違っていなかったとこの時、確信した。

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5年前、この経験を思い出して、こう書いた。

311後に、再び、この時の記憶がよみがえってきた。
それは、311後の私たちの行動とは、311後の日本社会の前代未聞の理不尽さに抵抗せずにおれなかった抗議のアクションであり、そのエッセンスは人権を自ら実行することと一直線にリンクしたから。このリンクを通じ、私は、このときの自分の経験の意味を味わい、改めて自信を持った。と同時に、311後の自分たちの行動の意味も新たに与えられ、新たな確信を与えられた。

新老年とは、自分の青年時代、中年時代の自分史の再定義・再発見でもある。

そして、チェルノブイリ法日本版とは、人権の再定義・再発見である。

【再開第4話】私にとって人権の最初の一歩:それは理想主義でも現実主義でもない。それはもうひとつの理想主義&現実主義として出現した(25.12.5)

 以下は、【再開第3話】ブックレットに掲げる人権は理想主義でも現実主義でもない。それはもうひとつの理想主義&現実主義 について、自身の体験に即して語るもの。

20代すべてを司法試験の受験勉強で費やしてしまった体験から、合格した時、私はすっかり「すれっからし」の現実主義者になっていた。同期の合格者の、憲法や人権のことを強調する人たちの話は私には何か宙に浮いた話、絵空事、空理空論にしか聞こえず、まったく冷ややかに眺めていた。
そして、法律家としてやっていくためには、とにかく法律の世界で通用するような実力を身につけるしかないと実力主義の現実主義が不動の信念だった。その信念に従って、自分に一番合ったと思われた著作権法の世界で実力を身につけようと励んできた。その努力の甲斐があってか、著作権法の世界で、少しずつ仕事が順調に開けてきたし、著作物(作品)を作るクリエーターたちとの交流も進んだ。その順風満ぷうに見えた仕事の中で、私が見たのは、著作権業界で、クリエーターたちの置かれている悲惨な環境だった。クリエーターたちを食い物にして企業が金儲けするという古典的な資本主義の搾取の構造だった(今のアマゾンやgoogleなどと変わらない)。
そこで、私の現実主義は理想とのあからさまなギャップに直面することになり、そのギャップをどうやって埋めることが出来るのか、自分なりに考え、答えが出ないまま悩むようになった。その悩みの中で、或る時、次の現実に気がついたーー著作権ビジネスの中で価値を創造しているのはクリエーターたちだ。彼らには、その価値創造に相応しく、人間として尊重される資格があるはずだ、それが人権ではないかと。
この発見は思いがけないものだった、そして新鮮だった。
それまで、司法試験合格後の司法修習生時代に、同期の仲間から憲法や人権の話をいくら吹き込まれても、ひとつも心に響かなかったのに、この時、生まれて初めて人権が心に響いたからだ。なにがそうさせたのか。
それは、理不尽な人権侵害の労働環境に置かれているクリエーターたちの現実を知り、その現実を何とかできないのだろうかと悩む中で、初めて憲法の人権が私の前にその姿を現したのだ。このとき、私の前に現れた人権は私にとって疑いようのない実在のものだった。
それは「イヌも歩けば棒にあたる」みたいに、仁義なき世界を彷徨する中で人権に出会ってしまったという、一種の回心を経験したようなものだった。
これ以降、人権は私の中では疑いようのない実在となった。

つまり、現実に存在するもの以外に、理想もイデオロギーも信じないと固く決めていた私がそのスタイルを押し通していった結果、それまで思ってもみなかった形で、人権が「現実に存在するもの」として私の前に現れた。それは理不尽な現実と向き合った末に、その理不尽な現実を乗り越える力をもった実在する物として、人権というものが存在することを実感した。
それは全く不意打ちの思いがけない経験だった。今まで頭から信じなくて一笑に付していた人権に、今度は、これこそ自分が最も信頼すべきものであると今までとは正反対の見方をするようになったからだ。

しかし、これは最初の一歩で、ここからまた次の一歩を踏み出すことはそう容易なことではなかった(ここではその詳細は省く)。ともあれ、私にとって、理想主義とは、現実主義を突き詰める中から、現実主義の限界を突破するものとして、実在する理想のひとつとして人権が突然目の前に現れ、その体験を受け入れることだった。これが私にとっての理想主義と現実主義の2つの振り子の間でひとつの折合いを見つけた最初の体験だった。


 

【再開第3話】ブックレットに掲げる人権は理想主義でも現実主義でもない。それはもうひとつの理想主義&現実主義(25.12.5)

ブックレット「私たちは見ている」に書かれた人権について、その編者である私はどう考えているのか。
普通であれば、理想を追求する理想主義と現実だけを追及する現実主義のどちらなのか、と問いかけるだろう。それに対しては、私はどちらでもないと答える。ならば何なのか、という問いに対しては、私は「もうひとつの理想主義&現実主義」と答える。以下はその答えの意味とその理由についてである。

 「もうひとつの理想主義&現実主義」とは現実主義的でありながら、なおかつ同時に理想主義を追求するあり方という意味。
ブックレットに掲げた「政治・政策から人権へのシフト」という立場は決して、単なる理想でもイデオロギーでもない。つまり、人権を語るとき、それは単なる理想でもイデオロギーでもなく、実在する或る力として語っている。
しかし、理想主義やイデオロギー主義に染まっている人にはそれがなかなか理解されない。同時に、理想主義やイデオロギー主義に反対する現実主義のリアル・ポリティックスの立場の人にもそのことはなかなか理解されない。

人権は人類の政治の歴史の中で、最初は小さなともし火のような存在だったのが、様々な試練の中で、「long and winding road」の道程を辿りながら、そのともし火は消滅するどころか、じわじわとその勢いを強め、現実の政治を動かす力のひとつとして成長してきた。つまり、政治を動かすものとして様々な力(当初は暴力の力、金の力が最強のように思われていたが、しかし、だんだん、それ以外にも科学の力=真理の力、美の力、愛の力、そして人権の力などが少しずつ成長してきた)が存在するが、そのひとつとして人権は、紛れもなく客観的に存在するものなのだ。だから、政治をリアルに客観的に捉えるリアル・ポリティックスの立場に立ったとしても、そこでは人権の力を冷静に正当に認識することが必要である。リアル・ポリティックスの立場から「理想主義者・イデオロギー主義者が人権を万能のもの、人権至上主義的に主張するのをおかしい」と批判するのはそれなりに当たっているとしても、だからといって、「人権の力なぞ客観的に存在しない幻想にすぎない」として葬り去るのはぜんぜんリアルで(科学的でも客観的でも)なく、リアル・ポリティックスの名に反する。
あくまでもリアル・ポリティックスに立つんだったら、まさに、人類の歴史が形成してきた「人権の力」を冷静に正当に認識すべきである。
それがブックレットのスタンス。

そのことを、リアル・ポリティックスの代名詞みたいにされているキッシンジャーのような権力者たちではなく、リアル・ポリティックスの考えに深く影響されている市民運動の人たちに対して訴えたいと思い、訴える必要があると思った。それはブックレットばかりではなく、日本の市民運動にとって、とても重要なポイントだからである。

2025年11月18日火曜日

【つぶやき7】住まいの権利裁判第16回弁論期日:「一寸先は闇」と「一歩後退、二歩前進」の中で見えてきた勝利の方程式(25.11.18)

これは今まで経験したことのないような、少々長い、パズル解きのような裁判報告。

1、住まいの権利裁判第16回弁論期日までの経過
先週11月12日の住まいの権利裁判。この日、内掘福島県知事の証人申請の採否が明らかにされる。つまり、この日でこの裁判の行方がほぼ決まる(なぜなら、内掘知事が採用されたからといって勝訴が保障されるわけではないが、不採用となれば、過去の追出し裁判の経験からも敗訴はほぼ確実となる)。

そのため、内掘証人尋問の必要性・必然性を実証的、論理的に明らかにするための書面をこの間、以下の通り準備、提出した。

原告準備書面(23) なぜ内掘知事の証人尋問が必要なのか(25.10.15)(

◆上申書  10月20日の進行協議で発言の補足(25.10.22)

原告準備書面(24)本文+別表1+別表2 準備書面(23)の続き(25.10.27)
 

原告準備書面(25) 立証責任の分配が立証活動に与える影響について(25.11.3)

◆原告準備書面(26) 被告第13準備書面について(25.11.10)

上申書 争点整理案の追記(25.11.10) 

)準備書面(23)の概要は以下。
1、前提問題
(1)、略
(2)、いかなる場合に行政庁の裁量判断は違法とされるか。
 都知事が行った都市計画の変更決定に対し、最高裁は次の通り判示した。
その基礎とされた重要な事実に誤認があること等により重要な事実の基礎を欠くこととなる場合,又は,事実に対する評価が明らかに合理性を欠くこと,判断の過程において考慮すべき事情を考慮しないこと等によりその内容が社会通念に照らし著しく妥当性を欠くものと認められる場合に限り,裁量権の範囲を逸脱し又はこれを濫用したものとして違法となるとすべきものと解するのが相当である。》(最判平成18年11月2日小田急線高架化事業認可取消訴訟。下線は原告代理人)。
 その結果、行政庁は重要な事実の基礎を欠くことのないように、なおかつ当該事実に対する評価が明らかに合理性を欠くことのないように、案件の裁量判断にあたっては、いかに判断すべきかを検討するために必要となる当該案件の構成要素たるあれこれの事実を十分に調査・収集しておくことが判断の大前提となる。
 そこで、裁判所が行政庁の裁量判断を審査するにあたっても、行政庁が調査・収集すべき上記事実を適切に把握しておくことが不可欠となる。

(3)、行政庁の裁量判断についてどのような司法審査が行なわれるべきか。
 行政庁の判断過程において、重視すべきでない考慮要素を重視し(過大評価)、当然考慮すべき事項を十分考慮しない(過小評価)などの合理性を欠くことを問題にして司法審査した最高裁平成18年2月7日学校施設使用許可国賠事件判決以降、「判断過程審査」方式が積み重ねられ 、近時はこの「判断過程審査」方式が通例となり、定着している(原告準備書面(19)16~17頁。藤田宙靖元最高裁裁判官「自由裁量論の諸相―裁量処分の司法審査をめぐって―」73~74頁〔甲B37号証〕)。

(4)、「判断過程審査」方式においてはどのように審査が行なわれるのか。
裁量判断の方法ないしその過程に誤りがあるかどうかを審査する。具体的には以下の諸点について吟味検討を行なう。
①.本来考慮に容れるべき要考慮事項を考慮したか。
②.本来考慮に容れるべきでない考慮禁止事項を考慮に容れなかったか(他事考慮)。
③.要考慮事項について当然尽すべき考慮を尽したか(過小評価)を
④.本来過大に評価すべきでない事項を過重に評価しなかったか(過大評価)
 以上を前提にして、以下の問題について検討する。

2、問題の所在
本裁判において、内掘知事の証人喚問がなぜ必要か。

3、結論
そもそも行政庁の裁量判断の違法性の有無を司法審査する上で、要考慮事項・考慮禁止事項の内容及びその重み付けを検討・判断するためには、行政庁が裁量判断にあたって、事前に十分に調査・収集しておくべき、判断の基礎となる事実・情報(以下、当該情報という)を把握することが不可欠である。本件においても、県知事決定の基礎となるべき当該情報を収集することが不可欠である。そこで、この情報収集のためには、県知事決定を下した本人から直接及び反対尋問にさらされる証人手続の中で入手するのがベストである。

4、理由

そもそも福島原発事故クラスの原発事故(放射能災害)は災害救助法で予定しているような従来型の災害・事故の枠組みに収まらない、想定外の大災害(カタストロフィー)であり、こうした大災害(カタストロフィー)に見舞われた被災者(そこには当然、区域外避難者も含まれる)に対して、国・自治体には、被災者が原発事故から回復(命、健康の回復、生活再建)することに対する「十分な配慮」 が求められることは言うまでもない。
従って、県知事による区域外避難者への住宅の無償提供の打切りの決定にあたっても、その決定の判断過程において、要考慮事項の1つとして上記の「十分な配慮」をする必要がある。そこで、この「十分な配慮」を適切に実行するためには、無償提供の打切りの決定当時の区域外避難者の置かれた現況などについての必要十分な事実・情報に基づく必要がある。
そこで、問題はその際に、どのような事実・情報を収集することが求められるかである。そのためには、いま一度、行政法を論理的な概念法学(=死んだ行政法)ではなく、「生きた行政法」の中で再構成するという以下の基本的な観点に立ちかえる必要がある。
「これまで、行政法学者たちは、一定の行政行為を概念を用いて分類して、法規裁量に該当するか、自由裁量に該当するかを導き、それによって、当該行政行為に対する司法審査の可否(違法の判断の可否)を判断してきた。」
「しかし、そこには当該行政行為をめぐって国民に及ぼす影響、或いは行政庁と国民の間の現実の関係というものが完全に欠落している」
「しかし、たとえ概念的には同一の行政行為に属するものであっても、上記の「国民に及ぼす影響」や「行政庁と国民の間の現実の関係」という当該行政行為が果たす機能が違えば、結局、その法的判断も異なりうるのである。」
「従って、重要なことは、機能的に捉えられた行政行為について、その機能作用に着目する中で、当該行政行為に対する司法審査の可否を判断すべきであって、概念的な操作でもって判断するのはおかしい」(以上、渡辺洋三「法治主義と行政権」〔1959年〕)
そこで、いやしくも区域外避難者の原発事故からの回復(命、健康の回復、生活再建)に対する「十分な配慮」を具体化しようとするならば、「仮設住宅の提供打切りの県知事決定が区域外避難者に及ぼす影響」や「福島県と区域外避難者の間の現実の関係」という生きた現実に即してこれを行なうほかなく、もし、このような「生きた現実」に即した検討をしない限り、行政行為である県知事決定は法律的に「空虚」なものにならざるを得ず 、そこで、県知事は具体的に以下の8個(その後2個追加で計10個)の情報を収集することが不可欠であった(以下、本件当該情報という)。
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2、住まいの権利裁判
16回弁論期日までの準備の中で導かれたこと
 その結果、実証的、論理的に「原告が考える考慮事項について、《知事が考慮を尽していない》ことの立証責任を負う原告がその立証責任を果たすためには、仮設住宅提供を打切った県知事決定を下した内掘知事本人から証言を引き出す以外に立証方法がないこと(なぜなら、被告福島県は原告が考える考慮事項について一切情報を提供しないから)」が示されたのであれば、もし裁判所が内掘知事の証人申請を不採用とするのは「考慮事項について立証責任を負う原告の立証活動を尽させるという裁判所の訴訟指揮に自ら反することになる」。裁判所に、そのような原告の立証活動の妨害をおこなう理由は何なのか?ーーこういう問いを投げる積りで準備した。

3、住まいの権利裁判16回弁論期日の当日
果して、裁判所は、内掘知事の証人申請を不採用とした。 そこで、上記の問いを投げた。
それは、先行する福島地裁に提訴された追出し裁判でも、3年前、福島地裁の裁判官も同様に、内掘知事の証人申請を不採用としたが、その真意は「もともと仮設住宅提供を打切った県知事決定が違法だいう避難者たちの主張は取るに足りない無理な主張。だから、そんな無理な主張の立証のために多忙な県知事をわざわざ尋問するまでもない」にあったが、今回の東京地裁の不採用の真意もそこにあるのかどうか、それを確認することがこの問いの目的だった。

もし、東京地裁の裁判官が「県知事は公務で多忙だから」といった趣旨の応答したときには、その応答振りから、その真意は3年前の福島地裁の裁判官と同様であることが透けて見えて、判決の見通しも敗訴が判明した。

ところが、東京地裁の裁判官は我々が予想もしていなかった奇妙な応答をするに至った。それは次のような内容だった。
①.仮設住宅提供を打切った県知事決定が違法かどうかは、何が考慮事項であるかについて明らかにし、それらについて考慮がされたかどうかを検討して判断することになるところ、
②.原告と被告が主張する「考慮事項」はその内容が真っ向から対立して、噛み合わない③.ところで、原告は、原告の主張する10個の考慮事項について、県知事は考慮をしていないということを主張する積りである。
④.これに対し、被告も、原告が主張する10個の考慮事項について、本法廷でも確認した通り、これらについて県知事は県知事決定の判断過程において考慮していないことを認めている。
⑤.すなわち、原告の主張する「10個の考慮事項について、県知事は県知事決定の判断過程において考慮していない」事実は被告においても争いがない。
⑥.従って、上記⑤の事実に双方で争いがない以上、これについては証拠調べする必要がない。
⑦.従って、上記⑤の事実の存否について内掘知事を証人として証拠調べする必要もない。
⑧.これが、内掘知事の証人申請の不採用の理由である。

4、住まいの権利裁判16回弁論期日の意味すること
この裁判所の言い分は論理的には正しい。
すると、仮設住宅提供を打切った県知事決定が違法かどうかの勝負は、何が考慮事項であるか、具体的には原告の主張する10個の考慮事項か、それとも被告の主張する3個の考慮事項か、という考慮事項の範囲をめぐる法律判断(法解釈)で決まることとなった。
これは、3年前、内掘知事の証人申請を却下し、そのあと、何の理由も示さず、県知事決定に裁量権の逸脱濫用はないと三行半の判決を下した追出し裁判の福島地裁一審判決とは全くちがう展開となった。

この想定外の展開に、もし内掘知事の証人申請の不採用ならば、3年前の追出し裁判の暗黒判決の再来を覚悟するほかなかったのに、裁判所との対話を通じて、そこから、予想もしていなかった新たな形で勝訴の可能性があることが見えてきて、そのために勝利の方程式の準備に励む余地を与えてくれた。
この意味で、この日の裁判は「一寸先は闇(そして光)」であり、「一歩後退、二歩前進」の瞬間だった。 

以下の動画(撮影UPLANさん)は、裁判後の報告集会で、この日の裁判所との対話のやりとりの意味について解説した
弁護団の井戸さんの解説
https://youtu.be/EeNSMWDBxjs?t=1855

同じく柳原の解説。
https://youtu.be/EeNSMWDBxjs?t=2535

裁判前の支援者集会で、柳原の今日の裁判の見通しの話。
https://youtu.be/EeNSMWDBxjs?t=1267

2025年11月5日水曜日

【再開第2話】ライン開通の最初の挨拶(25.11.5)

2025.11.5 水曜日

11:11 こんばんは

11:16 あっ、繋がりました(^_^)。お騒がせしました。

11:21  私の仕事部屋の今日のスナップ。埼玉に戻ると、都会の味気得ない風景で仕事をするのが嫌で、少しでも緑がすぐ脇にあるところを求めて仕事部屋にしています。気分がぜんぜん違います(^_^)。

11:24 以下はあなたからの動画の提案に私なりにどうしたいと考えているかについて、書いたもの、というより書き始めたものです。
https://catastrophe8crime.blogspot.com/2025/11/25115.html

11:28 このブログは、あなたのメールにあった、
>重要なのは、聞いた人が、いかにチェ法日本版が必要かと思えるかというところだと気が付きました。
       ↑
これを受けて、自分たちの周りに、数多くいる「日本版を必要と思っていない人たち」と、日本版を必要と思って行動しようと思っている数少ない人たち、この両者の間にある分断、これをどうやったら埋められるか、それについて語るのがあなたからの動画の提案に応える最良の方法だと思ったのです.


11:29 しかし、これは「言うは易き、行ない難し」で、じゃあ、どうやって、それを語るのか?という肝心なところで、この間(より正確には、ブックレットを出版して以来ずうっと)、思案してきました。

11:36 しかし、ここ1ヶ月の間に、ちょっと新しい出会いがあり、それがヒントになるのではないかと思えたのです。それがブログにも書いた「ソクラテスの問答」です。ソクラテスの対話の特長は、自分の主張から出発しないこと、相手の主張、考えから出発する。その限りで相手との分断はないのです。その上で、相手の考え方をいい加減なところで止めないで、徹底して吟味して、その考えが結局、何に帰結するかを相手と一緒に考え抜く。その限りでは、最後まで相手との分断は起きないのです。しかし、相手は自分の見解が木っ端微塵に破綻したことを思い知らされます。その結果、途方に暮れて、もはや今までとおりの考えではやれなくなる。
こうした批判力、という起爆力が日本版にも必要ではないか、と、まだぜんぜん取り組んできたことがなかったソクラテスの問答を日本版に適用するという課題を、今から検討したいと思っているのです。

11:40  過去にも、日本版の必要性をめぐって日本社会にある分断について、考えたこと、語ったことがあります。以下です。

11:42 180107レジメ(イシグロカズオ.坂本龍一第2稿).doc

11:43 ただし、その時、欠けていたことは、なぜ分断するのか、その分断の構造や理由に対する考察でした。というのは、どうやって、その問題に立ち向かっていいか、分からなかったのです。

11:45 それに対し、今回、一歩前に出たと思うのは、こう考えたことです。
そもそも分断の反対である「了解=分かる」ということの構造や根拠自体がまったく分かっていなかったことです。

11:46  それはどうやって学べるのか.


11:56 今回、その答えをひとつ見出しました。それが、
論理学を通じて学べると。つまり、
或る判断の真偽を知る=分かるとは、その判断を、既に真実と知られている他の判断によって検証・検討される、ということです。
例えば、空に飛んでいるものを見て、「あれはスズメだ」と思うとき、そのとき、人は、「空を飛んでいる『あれ』」がなんであるかを判断するときに、既に知っている「スズメ」という概念と比較して、「あれ」の特徴が「スズメ」のそれに対応していることを観察して、そこから「あれはスズメだ」という判断を下して、あれの正体を知ることになります。
これが私たちが「知る」という時の「知る構造」です。それをもう少し厳密な言い方に言い直すと、
或る命題が真か偽かを判定する方法とは、既に真と知られている別の命題を鏡にして、或る命題の真偽を判定することである。

11:57 これは恐ろしいことです。

12:00 なぜなら、我々が知るときにはこの判定方法を用いるとしたら、
もし鏡にする命題が、実は偽であるにもかかわらず、それを真であるかのように扱ったとき、それは正反対の結果つまり、偽にもかかわらず、真実であるかのように人々を思い込ませることを可能にする。
つまり、これが人々を欺くマインドコントロールの強力な方法(のひとつ)になるからです。

12:11 具体的に言います。
原発事故のとき、放射能を被ばくすることがどのように危険か、或いは危険でないのか、という問題を考えるとき、この未知の問題を吟味にするためには、上に言った通り、我々は、既に真と知られている別の命題を鏡にするしかありません。しかし、その際、その鏡を間違えてしまうと、上に言ったように正反対の結果に導かれます(本当は危険性があるのに、危険性はないと)。典型例が100mSv論です。これは我々の科学技術水準が低すぎて、100mSv以下の被ばくによって健康被害が発生するのかどうかについて明快な知見が得られないということですが、これが曲解されて、100mSv以下の被ばくは心配ないと。その結果、100mSv以下の被ばくに無防備になってしまいます。巷には、こうした偽の命題をあたかも真であるかのように偽装する似非命題が溢れています。それが、私たちを分断させる最大の要因になっている。
分断の構造を「了解の構造」から理解すれば、以上の現象は明快に理解できます。
そして、この「分断の構造」を断ち切るために必要なことも明快に理解できます。100mSv論のようなインチキな命題に代えて、「放射能の危険性」に関する真実を伝える内容の命題に置き換えることです。

12:15 このことは従来からも、取り組んできたのですが、今回、分断の構造と了解の構造の問題を考える中で、改めて、放射能の危険性に関する「正しい命題」(←我々の科学技術のレベの低さのため未解明の問題が山積していますが、それでもなお解明されたこともあるのだから)、それを手掛かりにして「分断の橋を架ける」取組みを、ソクラテスのようにもっと確信をもって取り組む必要があると思ったのです。
最後はちょっと駆け足になりましたが、これが私にとって、ハイエクの「古い真理を⼈の⼼に残そうとするなら新しい⾔葉で何度も⾔い直さなくてはならない」という意味です。
ひとまず、ライン開通の最初の挨拶でした。

2025年11月4日火曜日

【再開第1話】分断に橋を架けるための試み:ソクラテスの対話に倣って(25.11.5→6加筆)

 昨年5月に出版したブックレット「私たちは見ている」を再読しようとして、以下のことを思いついた。

再読の目的:それは分断に橋を架けること。
→チェルノブイリ法日本版が必要だと思って行動しようとする少数の人たちとそれ以外の大多数の人たちとの間に横たわる分断に橋を架けること。

その方法:それは馬の周りにまとわりついて刺し続ける虻(あぶ)のようなソクラテス、彼の対話をモデルにする。
→自説からスタートしないで、相手が拠って立つ見解からスタートする。 
 相手が信ずる命題を真実であると仮定して、そこから対話を始め、
 驚異としか言いようのない、倦まずたゆまぬ持続的対話の中で、とうとう矛盾に逢着することを示す。
 その結果、相手の命題が虚偽であることが証明され、分断の溝が一歩埋まる。
        ↑
 もちろん、ソクラテスの対話には以下の通り「限界」がある。しかし、その限界の無力さを嘆く前に、我々は彼の対話の衝撃力にもっと目を見張るべきではないか。つまり、彼の対話によって、人々はそれまで安心立命の中にいた自身の立場が何の根拠もない、不安定なものであることが暴かれた。頭の中がグジャグジャになり、心底、途方に暮れ、もはや二度と前のように安心して眠れなくなった。その状態はそれ以前の無知の中で惰眠を貪る状態より数倍前進したのだ。この震撼すべき事態をもたらした、馬の周りにまとわりついて刺した虻(あぶ)の一撃、そのインパクトに注目すべきだ。
その威力に驚嘆した者だけが初めて、次のテーマ「ソクラテスの対話の限界」をポジティブに捉えることができる。

ソクラテスの対話の限界について
しかし、そこからこちらの見解が真実であるかは必ずしも自明ではない。つまり、こちらの見解の真実性が明らかとなり、認識の分断の溝が埋まる訳ではない。ソクラテスも同様。彼も対話を通じて相手の信ずる見解が虚偽だと暴くことまでやるだけで、それ以上について何も分からないという立場を取る。
        ↑
当初、この態度が消極的に思えてすこぶる不満だった、なんでもっと積極的に自説の真実性を強調しないのか。なぜ、相手の見解の非真実性の前で立ち止まるのかと‥‥
しかし、のちに、この態度に十分訳があることに気がついた。ソクラテスの態度は「ものが分かる」ということの根本的な性格への理解に根ざしているのではないかと。
つまり、「ものが分かる」というのは実は、真実→真実→真実というひたすら真実について推理を辿っていく中で確かめられるのでは足りない(必要条件だけでしかない)、さらに十分条件を満たす必要があり、それが例えば、虚偽→虚偽→虚偽→破綻というひらすら虚偽について正しい推理を辿っていく中で破綻に至ることを示すソクラテスの批判=証明方法だったのではないか。
つまり、人が「ものが分かる」というのは、真実から辿るだけではなく、虚偽からも辿っていく必要があり、両者が相まって初めて、人は分かったと合点する。ソクラテスは自分の対話は、その「ものが分かる」ための一部を担当しているにすぎないと。
もしそうだとしたら、なぜ、彼は恐るべき熱心さ、執拗さでこの部分に集中して担当したのか。それには彼なりの確信があったはず。それは、虚偽→虚偽→虚偽→破綻を通じてこそ、人々は、ものが分かることを深く体験できるということではないか。現実世界の実情は、得てして、真実を辿る論理は単純だが、どこかリアリティに欠ける。これに対し、虚偽を辿る論理は複雑で、多種多様だが、しかしダイナミックで、その迫力はリアリティを感じさせる。それはヘーゲルが喝破したように、現実世界は運動・生成・変化、しかも「否定の否定」という運動・生成・変化の中にあり、従って、論理的にも、「否定の否定」という論理の中でこそ真実が最もリアリティももって捉えられるのではないか。

以上の教えを、チェルノブイリ法日本版で実践する必要があるのではないか。それによって初めて、 チェルノブイリ法日本版が必要だと思っている少数の人たちとそれ以外の大多数の人たちとの間に横たわる分断に橋を架けることが可能になるのではないか。

厳密には、 チェルノブイリ法日本版が必要だと思って行動しようとする人とそれ以外の人には、次の2つのグループがある。
①.チェルノブイリ法日本版が必要だと思っている人と思っていない人(認識の分断)。
②.チェルノブイリ法日本版が必要だと思って行動しようとする人と必要だけれど実現できるとは思っていない人(実践の分断)。
分断の次元がちがうので、別々に考える必要がある。

以下、①について書く。

 

 

 

 

2024年6月16日日曜日

第2章:「人権」を取り戻すための「チェルノブイリ法日本版」

放射能災害に対する対策は完全に「ノールール」状態

311後、福島原発事故で甚大な「人権」が侵害されているにも関わらず、これを正面から救済する人権保障の法律も政策もないという異常事態にあります。第1章で述べましたが、「人権」とは、命、健康、暮らしを守る権利のことです。

国や福島県は、311後、一人ひとりの被災者の立場に立って「原発事故の被災者の真の救済はいかにあるべきか」というビジョンを示すことができませんでした。それは、311前の日本の法律の内容と思想には大きな欠落があったからです。

「放射能災害というものは起きない」という安全神話を盲信していて、対策はやったとしてもなおざりの儀礼的なものにとどまっていました。本当の意味の原発事故被害対策は完全に没却されていたのです。法律の体系は、放射能災害に対する対策は完全に「ノールール(無法)」状態にあったのです。法律用語で「法の欠缺(けんけつ)」と言います。

その法の思想に関しても、放射能災害以外の、地震や津波の災害における基本理念というのは、被害者は政府の保護や救助の対象として捉えていました。被害者を「人権」の主体として捉えてきませんでした。。つまり人権思想が不在であったことが、311前の大きな特徴です。

問題は、311後にどうなったかということですが、これもまったく変わらなかったと言えます。原発事故が起きてしまった後に国がやったことは、災害救助法の時の理念と同じでした。2012年に全会一致の議員立法で制定された「原発事故子ども被災者支援法」では、原発事故被害者をあくまでも国家の保護・救助の対象として、彼らに対して指示や命令や勧奨等に従うことを求めました。住宅やお金が提供された市民は黙ってありがたく受け取るだけの施しお恵みの対象で、決して「人権」の主体としては扱われませんでした。例え不満であっても従うしかありません。そこは311前と同様なのです。

さらに、「原発事故子ども被災者支援法」では、基本理念で、居住・移住・帰還いずれの選択でも支援し、健康不安の解消に努めるとしました。けれども理念のみが書かれているだけで、具体的な政策の決定を行政府に委ねる法律であったため、役人の手によって日の目を見ないまま廃止同然となりました。

「311後の復興」を願うのであれば、それは、何よりもまず、「チェルノブイリ法日本版」を実現することで、「人権」を取り戻すことが第一です。私たちは、過去に前例のないほどの深刻な人権問題に直面しているのです。


被災者の「人権」を法に定めると国家に責任と義務が生じる


ひとたび被災者の立場を「人権」の主体としてとらえた場合には、事態が一変します。なぜなら「人権」が認められるとき、そこに発生するのは、その権利を守らなければならないというのは国の「法的義務」だからです。市民の「人権」を侵害しない、させないというのが、「人権」に対する国の義務です。ですからお金の給付とか住宅の提供を打ち切る場合も、それが「人権」の侵害にならないかが、厳しく問われることになります。

200年以上前の史上初の人権宣言=ヴァージニア憲法の原点なのですが、同憲法には「政府というものは本来市民の利益のために作られて、それに反する政府は改良し変革しまたは廃止するというのが市民の権利である」とはっきり謳われています。「人権」の主体として認められたときには、市民にこのような権利が発生します。

なぜ「原発事故子ども被災者支援法」では、こういうことが謳われなかったのか。それこそが政府にとっては市民に渡すわけにはいかない権利だったわけで、「権利」の字句は一言も書かれていないのです。同法を作るにあたり、どうしても「権利」という言葉を組み込むことが出来なかったと言われています。

もう少しお話をすると、「原発事故子ども被災者支援法」では、2条の基本理念をはじめとして、この法律には「義務」という言葉もどこにも登場しません。確に3条には「責任」が登場しますが、この法律は、責任が「法的義務」と同じ意味を持つ「法的責任」と取られないように、わざわざ「社会的責任」、つまり「法的責任」ではないことを明記しています。先に述べたように、「原発事故子ども被災者支援法」は、原発事故の救済を国の施策(行政機関の裁量)に全面的に任せました。これでは、被災者は永遠に救済されないと考えます。

これに対して、「チェルノブイリ法日本版」の意義は「人権の本質・原点に立ち返って放射能災害における被災者の救済を再定義する」ということにあります。つまり、原発事故の救済の具体的内容を法律で定め、国は法律の定めた内容通り実行することを義務付けています。基準さえ満たせば、政府の役人に裁量の余地を認めず、全面一律に救済を認めた具体法なのです。

「原発事故子ども被災者支援法」は、「チェルノブイリ法日本版」から乖離しすぎていて、「法の実行」をしても力になりませんし、法の改正は実質的に新法を作るのと同じことです。ならば、私たちにできるのは第4章で紹介する「市民立法」によって、新法を制定することこそ、現実的な道ではないでしょうか。


「人権」は一瞬たりとも途切れることがない

もともと「人権」というのは「日本国民である」とか「福島県民である」とか「ナントカである」ということに基づいて認められる権利ではありません。ただ人であることだけに基づいています。人は唯一無二の存在であるという個人の尊重の理念に立脚したものです。

そして、「人権」は私たちが発見して初めて見出すことができるものと言えます。それは市民運動のためのスローガンでも、道具でも、手段でもない。「人権」自体が、市民運動の目的であり、ゴールである。と同時に、本来、「人権」は市民運動の中にすでに存在しています。

「人権」は、歴史的にはアメリカ革命(アメリカの独立戦争)で出現して、その後普遍的なものとして承認されてきた人類至高の権利です。私たちは、ここに立ち戻って、放射能災害における被災者の救済を再定義しようと提起しています。

「人権」がある場合には、「人権」を侵害しないこと、「人権」の保障を実行すること、 これが国家の唯一の義務になります。しかも「人権」はオギャーと生まれたときから死ぬまで、「切れ目なく、一瞬たりとも途切れることなく」保障される権利です。


国際人権法・社会権規約を直接適用する


「チェルノブイリ法日本版」は「国際人権法」の基本原理を具体化したものです。原発事故の危険は国境なき災害であり、その救済も国境なき救済として、「国際人権法」の課題として取り組む必要があります。

これまで「人権」というと、「今ここで即時に」達成が可能な自由権か、それとも国は政策を推進する政治的責任を負うにとどまる社会権かのいずれかでした。しかし、1966年に制定された国際人権法・社会権規約の採択では、「もうひとつの社会権」として、新しい権利概念の導入がありました。

それは、国の経済力や資源などの客観的条件を踏まえ、権利の完全な実現にむけて「斬新的に達成するため」、利用可能な資源を最大限に用いて、立法その他で適切な「措置を取る」ことを法的な責任として認めました。義務性急に権利の実現を図ろうとして失敗した過去の歴史的経験を反省し、私たちの身の丈にあったプロセスを提案したものと言えます。

「チェルノブイリ法日本版」において、ゴールは被災者の命、身体、暮らしの保障です。ただし、そこに至る具体的な取り組みはゴールの実現に向けて、「斬新的」に達成するように、目の前の小さな取り組みを丁寧に、かつ熱心しに取り組むというプロセスです。

この考え方の根底にある理念こそが、民主主義と言えます。制度=ゴールと考え、「制度ができたら、はい、おしまい」と考えるのではなく、民主主義にはゴールはない、あるのは不断に努力し改善していく無限のプロセスだという考え方です。これは丸山真男氏が唱える「永久革命としての民主主義」に共鳴するもので、斬新的達成を永続的に目指す社会権と言えます。

この規約に照らせば、経済力のある日本では、ただちに被災者の「避難の権利」「移住の権利」さらに「健康に暮らす権利」が認められなければならないことになります。

国際人権法による避難者の人権保障で、この章の冒頭で述べた法律体系の「ノールール(無法)」状態を克服したら、「チェルノブイリ法日本版」が見つかることを、国も「確認」しろという多くの市民の声が高まれば、これはもう無視できなくなるでしょう。最後の決め手は「市民主導の世論喚起」なのです。


国際人権法にある「人民の自決の権利」

さらに、もう一つ大切なのは、国際人権法の二大柱の一つ社会権規約の第一条には「人民の自決の権利」が謳われていることです。

第1条【人民の自決の権利】

すべての人民は、自決の権利を有する。この権利に基づき、すべての人民は、その政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する。

そして、この「個人の自決権」は、日本国憲法の柱である「国民主権」につながります。311後、市民が各自、放射能の危険から避難するかどうかを決定する行為を基礎付けるのに「個人の自決権」という原理が有力でしたが、この行為は同時に「国民主権」という原理からも基礎づけられるものだからです。

「個人の自決権」とは、「自分の生き方、身の処し方、暮らし方は自分自身の選択で決定することができ、その選択に他人や権力が介入することは許されない」というものです。そこで、「自分の生き方」とは自分自身の生き方であるのは当然ですが、それにとどまらず、その範囲が広がって、自分の家庭の生き方、自分の住む地域の生き方、自分の住む国の生き方も、同様に自己決定して決めていくものであることを含んでいます。

もっとも、そこでは、同じく自己決定権を有する対等な他者との合意に基づき、その集団の決定をしていく必要があるため、否応なしにその意見調整が必要になってきますが、原理はあくまでも、そこに参加する個々人の自己決定を基礎にして、その団体の意思が決定されると考えることができます。それが個人の自己決定権を基礎にした「市民の自己統治」であり、これが国レベルでいうと「国民主権」ということになります。

「国民主権」に基づいて、国民からの信託により政治を担当している国や県の役人は、避難という重大な問題で「自己決定」に迫られた市民に対し、彼らに最も納得のいく、最も適切な自己決定が出来るように、必要かつ適切な情報を可能な限り提供する義務を負っていました。

これは言い換えれば、311直後の時点で、国や県の役人が市民に説明責任を負っていたということです。しかし、現実には、311直後は言うに及ばず、その後も今日現在まで終始一貫して、国や県の役人は市民に負っている説明責任をまったく果そうとしていません。従って、説明責任を果す上で必要な情報提供も行わず、その結果、私たち市民は、311直後も、そして現在でも、放射能問題に対する「自己決定」を下すことが困難であり、ずっと「自決の権利」を奪われたままでいるのです。「自決の権利」を奪われたままでいるということは、「国民主権」の主権者の地位をずうっと奪われたままでいるということです。


国際人権法が311後の日本社会を変える



2023年10月25日、最高裁判所大法廷はとても大切な決定をしました。トランスジェンダーの法律上の性別認定の条件として断種手術を課す国内法を違憲と判断。この決定の根拠として、 「国際人権法」に反しているとしたと明言したのです。

もともと法律には「下位の法令は上位の法令に従い、これに適合する必要がある」という掟があります。例えば、交通規制の法律で「車は左側通行」と決めたら、その下位の法令は全てこれに従って定めらます。それが守られなかったら法体系は秩序が保たれず、機能しない。当然の掟です。

先に述べた出た最高裁大法廷の決定もこの当然の掟に従ったまでのことです。今回、法律の上位の法令として「国際人権法」があることを正面から認めただけです。日本で国際人権法が法律の上位の法令であることを、今さら言うまでもないことですが、この当たり前のことを、今回やっと初めて認めたのです。(この掟のことを序列論あるいは上位規範(国際人権法)適合解釈と言います。)

重要なことは、最高裁がこの大法廷決定で使ってしまったカード、「日本の法令は国際人権法に適合するように解釈しなければならない」ということ、この原理の適用は性同一性の法令と事件だけにとどまらないということです。

法規範は普遍的な性格を持ち、それゆえ、この上位規範(国際人権法)適合解釈という原理は、それ以外の法令にも、またそれ以外の事件にも適用される。その結果、どういうことになるか。

第1に、この原理により、日本のあらゆる法令が国際人権法の観点から再解釈されることになる。これを本気で検討したらどういうことになるか。それまで鎖国状態の中にあった日本の法令は、幕末の黒船到来以来の「文明開化」に負けない「国際人権法化」にさらされ、すっかり塗り替えられることになります。

第2に、この原理は福島原発事故関連のすべての裁判に適用されることになります。これを本気で検討したらどういうことになるか。その時、福島原発事故関連のすべての裁判のこれまでの判決はみんなひっくり返る可能性があります。


欠缺の補充を上位規範である憲法や国際人権法に基づいて、これらに適合するように補充する必要があり、もしこれを承認するのであれば、欠缺の補充の結果、国際連合人権委員会(当時)が定めた「国内避難に関する指導原則」等に示された被災者の人権保障によって、日本の法体系は全面的に補充されることになります。この全面的に補充された法規範、これをトータルに示したのが、他ならぬ「チェルノブイリ法日本版」なのです。




【再開第5話】私にとって人権の二歩目:それは人権侵害に対し、「おかしい!」と声をあげ、抵抗すること、そのときに初めて人権が存在すること(25.12.5)

 以下は、私にとって人権の最初の一歩を経験したあと、二歩目の経験をしたことについて語るもの。5年前の2020年11月、新老年としての「過去の自分史」の1つを再定義・再発見したもの(> 当時のブログ記事 )。  ***************************  四半世紀前、...