2025年11月18日火曜日

【つぶやき7】住まいの権利裁判第16回弁論期日:「一寸先は闇」と「一歩後退、二歩前進」の中で見えてきた勝利の方程式(25.11.18)

これは今まで経験したことのないような、少々長い、パズル解きのような裁判報告。

1、住まいの権利裁判第16回弁論期日までの経過
先週11月12日の住まいの権利裁判。この日、内掘福島県知事の証人申請の採否が明らかにされる。つまり、この日でこの裁判の行方がほぼ決まる(なぜなら、内掘知事が採用されたからといって勝訴が保障されるわけではないが、不採用となれば、過去の追出し裁判の経験からも敗訴はほぼ確実となる)。

そのため、内掘証人尋問の必要性・必然性を実証的、論理的に明らかにするための書面をこの間、以下の通り準備、提出した。

原告準備書面(23) なぜ内掘知事の証人尋問が必要なのか(25.10.15)(

◆上申書  10月20日の進行協議で発言の補足(25.10.22)

原告準備書面(24)本文+別表1+別表2 準備書面(23)の続き(25.10.27)
 

原告準備書面(25) 立証責任の分配が立証活動に与える影響について(25.11.3)

◆原告準備書面(26) 被告第13準備書面について(25.11.10)

上申書 争点整理案の追記(25.11.10) 

)準備書面(23)の概要は以下。
1、前提問題
(1)、略
(2)、いかなる場合に行政庁の裁量判断は違法とされるか。
 都知事が行った都市計画の変更決定に対し、最高裁は次の通り判示した。
その基礎とされた重要な事実に誤認があること等により重要な事実の基礎を欠くこととなる場合,又は,事実に対する評価が明らかに合理性を欠くこと,判断の過程において考慮すべき事情を考慮しないこと等によりその内容が社会通念に照らし著しく妥当性を欠くものと認められる場合に限り,裁量権の範囲を逸脱し又はこれを濫用したものとして違法となるとすべきものと解するのが相当である。》(最判平成18年11月2日小田急線高架化事業認可取消訴訟。下線は原告代理人)。
 その結果、行政庁は重要な事実の基礎を欠くことのないように、なおかつ当該事実に対する評価が明らかに合理性を欠くことのないように、案件の裁量判断にあたっては、いかに判断すべきかを検討するために必要となる当該案件の構成要素たるあれこれの事実を十分に調査・収集しておくことが判断の大前提となる。
 そこで、裁判所が行政庁の裁量判断を審査するにあたっても、行政庁が調査・収集すべき上記事実を適切に把握しておくことが不可欠となる。

(3)、行政庁の裁量判断についてどのような司法審査が行なわれるべきか。
 行政庁の判断過程において、重視すべきでない考慮要素を重視し(過大評価)、当然考慮すべき事項を十分考慮しない(過小評価)などの合理性を欠くことを問題にして司法審査した最高裁平成18年2月7日学校施設使用許可国賠事件判決以降、「判断過程審査」方式が積み重ねられ 、近時はこの「判断過程審査」方式が通例となり、定着している(原告準備書面(19)16~17頁。藤田宙靖元最高裁裁判官「自由裁量論の諸相―裁量処分の司法審査をめぐって―」73~74頁〔甲B37号証〕)。

(4)、「判断過程審査」方式においてはどのように審査が行なわれるのか。
裁量判断の方法ないしその過程に誤りがあるかどうかを審査する。具体的には以下の諸点について吟味検討を行なう。
①.本来考慮に容れるべき要考慮事項を考慮したか。
②.本来考慮に容れるべきでない考慮禁止事項を考慮に容れなかったか(他事考慮)。
③.要考慮事項について当然尽すべき考慮を尽したか(過小評価)を
④.本来過大に評価すべきでない事項を過重に評価しなかったか(過大評価)
 以上を前提にして、以下の問題について検討する。

2、問題の所在
本裁判において、内掘知事の証人喚問がなぜ必要か。

3、結論
そもそも行政庁の裁量判断の違法性の有無を司法審査する上で、要考慮事項・考慮禁止事項の内容及びその重み付けを検討・判断するためには、行政庁が裁量判断にあたって、事前に十分に調査・収集しておくべき、判断の基礎となる事実・情報(以下、当該情報という)を把握することが不可欠である。本件においても、県知事決定の基礎となるべき当該情報を収集することが不可欠である。そこで、この情報収集のためには、県知事決定を下した本人から直接及び反対尋問にさらされる証人手続の中で入手するのがベストである。

4、理由

そもそも福島原発事故クラスの原発事故(放射能災害)は災害救助法で予定しているような従来型の災害・事故の枠組みに収まらない、想定外の大災害(カタストロフィー)であり、こうした大災害(カタストロフィー)に見舞われた被災者(そこには当然、区域外避難者も含まれる)に対して、国・自治体には、被災者が原発事故から回復(命、健康の回復、生活再建)することに対する「十分な配慮」 が求められることは言うまでもない。
従って、県知事による区域外避難者への住宅の無償提供の打切りの決定にあたっても、その決定の判断過程において、要考慮事項の1つとして上記の「十分な配慮」をする必要がある。そこで、この「十分な配慮」を適切に実行するためには、無償提供の打切りの決定当時の区域外避難者の置かれた現況などについての必要十分な事実・情報に基づく必要がある。
そこで、問題はその際に、どのような事実・情報を収集することが求められるかである。そのためには、いま一度、行政法を論理的な概念法学(=死んだ行政法)ではなく、「生きた行政法」の中で再構成するという以下の基本的な観点に立ちかえる必要がある。
「これまで、行政法学者たちは、一定の行政行為を概念を用いて分類して、法規裁量に該当するか、自由裁量に該当するかを導き、それによって、当該行政行為に対する司法審査の可否(違法の判断の可否)を判断してきた。」
「しかし、そこには当該行政行為をめぐって国民に及ぼす影響、或いは行政庁と国民の間の現実の関係というものが完全に欠落している」
「しかし、たとえ概念的には同一の行政行為に属するものであっても、上記の「国民に及ぼす影響」や「行政庁と国民の間の現実の関係」という当該行政行為が果たす機能が違えば、結局、その法的判断も異なりうるのである。」
「従って、重要なことは、機能的に捉えられた行政行為について、その機能作用に着目する中で、当該行政行為に対する司法審査の可否を判断すべきであって、概念的な操作でもって判断するのはおかしい」(以上、渡辺洋三「法治主義と行政権」〔1959年〕)
そこで、いやしくも区域外避難者の原発事故からの回復(命、健康の回復、生活再建)に対する「十分な配慮」を具体化しようとするならば、「仮設住宅の提供打切りの県知事決定が区域外避難者に及ぼす影響」や「福島県と区域外避難者の間の現実の関係」という生きた現実に即してこれを行なうほかなく、もし、このような「生きた現実」に即した検討をしない限り、行政行為である県知事決定は法律的に「空虚」なものにならざるを得ず 、そこで、県知事は具体的に以下の8個(その後2個追加で計10個)の情報を収集することが不可欠であった(以下、本件当該情報という)。
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2、住まいの権利裁判
16回弁論期日までの準備の中で導かれたこと
 その結果、実証的、論理的に「原告が考える考慮事項について、《知事が考慮を尽していない》ことの立証責任を負う原告がその立証責任を果たすためには、仮設住宅提供を打切った県知事決定を下した内掘知事本人から証言を引き出す以外に立証方法がないこと(なぜなら、被告福島県は原告が考える考慮事項について一切情報を提供しないから)」が示されたのであれば、もし裁判所が内掘知事の証人申請を不採用とするのは「考慮事項について立証責任を負う原告の立証活動を尽させるという裁判所の訴訟指揮に自ら反することになる」。裁判所に、そのような原告の立証活動の妨害をおこなう理由は何なのか?ーーこういう問いを投げる積りで準備した。

3、住まいの権利裁判16回弁論期日の当日
果して、裁判所は、内掘知事の証人申請を不採用とした。 そこで、上記の問いを投げた。
それは、先行する福島地裁に提訴された追出し裁判でも、3年前、福島地裁の裁判官も同様に、内掘知事の証人申請を不採用としたが、その真意は「もともと仮設住宅提供を打切った県知事決定が違法だいう避難者たちの主張は取るに足りない無理な主張。だから、そんな無理な主張の立証のために多忙な県知事をわざわざ尋問するまでもない」にあったが、今回の東京地裁の不採用の真意もそこにあるのかどうか、それを確認することがこの問いの目的だった。

もし、東京地裁の裁判官が「県知事は公務で多忙だから」といった趣旨の応答したときには、その応答振りから、その真意は3年前の福島地裁の裁判官と同様であることが透けて見えて、判決の見通しも敗訴が判明した。

ところが、東京地裁の裁判官は我々が予想もしていなかった奇妙な応答をするに至った。それは次のような内容だった。
①.仮設住宅提供を打切った県知事決定が違法かどうかは、何が考慮事項であるかについて明らかにし、それらについて考慮がされたかどうかを検討して判断することになるところ、
②.原告と被告が主張する「考慮事項」はその内容が真っ向から対立して、噛み合わない③.ところで、原告は、原告の主張する10個の考慮事項について、県知事は考慮をしていないということを主張する積りである。
④.これに対し、被告も、原告が主張する10個の考慮事項について、本法廷でも確認した通り、これらについて県知事は県知事決定の判断過程において考慮していないことを認めている。
⑤.すなわち、原告の主張する「10個の考慮事項について、県知事は県知事決定の判断過程において考慮していない」事実は被告においても争いがない。
⑥.従って、上記⑤の事実に双方で争いがない以上、これについては証拠調べする必要がない。
⑦.従って、上記⑤の事実の存否について内掘知事を証人として証拠調べする必要もない。
⑧.これが、内掘知事の証人申請の不採用の理由である。

4、住まいの権利裁判16回弁論期日の意味すること
この裁判所の言い分は論理的には正しい。
すると、仮設住宅提供を打切った県知事決定が違法かどうかの勝負は、何が考慮事項であるか、具体的には原告の主張する10個の考慮事項か、それとも被告の主張する3個の考慮事項か、という考慮事項の範囲をめぐる法律判断(法解釈)で決まることとなった。
これは、3年前、内掘知事の証人申請を却下し、そのあと、何の理由も示さず、県知事決定に裁量権の逸脱濫用はないと三行半の判決を下した追出し裁判の福島地裁一審判決とは全くちがう展開となった。

この想定外の展開に、もし内掘知事の証人申請の不採用ならば、3年前の追出し裁判の暗黒判決の再来を覚悟するほかなかったのに、裁判所との対話を通じて、そこから、予想もしていなかった新たな形で勝訴の可能性があることが見えてきて、そのために勝利の方程式の準備に励む余地を与えてくれた。
この意味で、この日の裁判は「一寸先は闇(そして光)」であり、「一歩後退、二歩前進」の瞬間だった。 

以下の動画(撮影UPLANさん)は、裁判後の報告集会で、この日の裁判所との対話のやりとりの意味について解説した
弁護団の井戸さんの解説
https://youtu.be/EeNSMWDBxjs?t=1855

同じく柳原の解説。
https://youtu.be/EeNSMWDBxjs?t=2535

裁判前の支援者集会で、柳原の今日の裁判の見通しの話。
https://youtu.be/EeNSMWDBxjs?t=1267

2025年11月5日水曜日

【再開第2話】ライン開通の最初の挨拶(25.11.5)

2025.11.5 水曜日

11:11 こんばんは

11:16 あっ、繋がりました(^_^)。お騒がせしました。

11:21  私の仕事部屋の今日のスナップ。埼玉に戻ると、都会の味気得ない風景で仕事をするのが嫌で、少しでも緑がすぐ脇にあるところを求めて仕事部屋にしています。気分がぜんぜん違います(^_^)。

11:24 以下はあなたからの動画の提案に私なりにどうしたいと考えているかについて、書いたもの、というより書き始めたものです。
https://catastrophe8crime.blogspot.com/2025/11/25115.html

11:28 このブログは、あなたのメールにあった、
>重要なのは、聞いた人が、いかにチェ法日本版が必要かと思えるかというところだと気が付きました。
       ↑
これを受けて、自分たちの周りに、数多くいる「日本版を必要と思っていない人たち」と、日本版を必要と思って行動しようと思っている数少ない人たち、この両者の間にある分断、これをどうやったら埋められるか、それについて語るのがあなたからの動画の提案に応える最良の方法だと思ったのです.


11:29 しかし、これは「言うは易き、行ない難し」で、じゃあ、どうやって、それを語るのか?という肝心なところで、この間(より正確には、ブックレットを出版して以来ずうっと)、思案してきました。

11:36 しかし、ここ1ヶ月の間に、ちょっと新しい出会いがあり、それがヒントになるのではないかと思えたのです。それがブログにも書いた「ソクラテスの問答」です。ソクラテスの対話の特長は、自分の主張から出発しないこと、相手の主張、考えから出発する。その限りで相手との分断はないのです。その上で、相手の考え方をいい加減なところで止めないで、徹底して吟味して、その考えが結局、何に帰結するかを相手と一緒に考え抜く。その限りでは、最後まで相手との分断は起きないのです。しかし、相手は自分の見解が木っ端微塵に破綻したことを思い知らされます。その結果、途方に暮れて、もはや今までとおりの考えではやれなくなる。
こうした批判力、という起爆力が日本版にも必要ではないか、と、まだぜんぜん取り組んできたことがなかったソクラテスの問答を日本版に適用するという課題を、今から検討したいと思っているのです。

11:40  過去にも、日本版の必要性をめぐって日本社会にある分断について、考えたこと、語ったことがあります。以下です。

11:42 180107レジメ(イシグロカズオ.坂本龍一第2稿).doc

11:43 ただし、その時、欠けていたことは、なぜ分断するのか、その分断の構造や理由に対する考察でした。というのは、どうやって、その問題に立ち向かっていいか、分からなかったのです。

11:45 それに対し、今回、一歩前に出たと思うのは、こう考えたことです。
そもそも分断の反対である「了解=分かる」ということの構造や根拠自体がまったく分かっていなかったことです。

11:46  それはどうやって学べるのか.


11:56 今回、その答えをひとつ見出しました。それが、
論理学を通じて学べると。つまり、
或る判断の真偽を知る=分かるとは、その判断を、既に真実と知られている他の判断によって検証・検討される、ということです。
例えば、空に飛んでいるものを見て、「あれはスズメだ」と思うとき、そのとき、人は、「空を飛んでいる『あれ』」がなんであるかを判断するときに、既に知っている「スズメ」という概念と比較して、「あれ」の特徴が「スズメ」のそれに対応していることを観察して、そこから「あれはスズメだ」という判断を下して、あれの正体を知ることになります。
これが私たちが「知る」という時の「知る構造」です。それをもう少し厳密な言い方に言い直すと、
或る命題が真か偽かを判定する方法とは、既に真と知られている別の命題を鏡にして、或る命題の真偽を判定することである。

11:57 これは恐ろしいことです。

12:00 なぜなら、我々が知るときにはこの判定方法を用いるとしたら、
もし鏡にする命題が、実は偽であるにもかかわらず、それを真であるかのように扱ったとき、それは正反対の結果つまり、偽にもかかわらず、真実であるかのように人々を思い込ませることを可能にする。
つまり、これが人々を欺くマインドコントロールの強力な方法(のひとつ)になるからです。

12:11 具体的に言います。
原発事故のとき、放射能を被ばくすることがどのように危険か、或いは危険でないのか、という問題を考えるとき、この未知の問題を吟味にするためには、上に言った通り、我々は、既に真と知られている別の命題を鏡にするしかありません。しかし、その際、その鏡を間違えてしまうと、上に言ったように正反対の結果に導かれます(本当は危険性があるのに、危険性はないと)。典型例が100mSv論です。これは我々の科学技術水準が低すぎて、100mSv以下の被ばくによって健康被害が発生するのかどうかについて明快な知見が得られないということですが、これが曲解されて、100mSv以下の被ばくは心配ないと。その結果、100mSv以下の被ばくに無防備になってしまいます。巷には、こうした偽の命題をあたかも真であるかのように偽装する似非命題が溢れています。それが、私たちを分断させる最大の要因になっている。
分断の構造を「了解の構造」から理解すれば、以上の現象は明快に理解できます。
そして、この「分断の構造」を断ち切るために必要なことも明快に理解できます。100mSv論のようなインチキな命題に代えて、「放射能の危険性」に関する真実を伝える内容の命題に置き換えることです。

12:15 このことは従来からも、取り組んできたのですが、今回、分断の構造と了解の構造の問題を考える中で、改めて、放射能の危険性に関する「正しい命題」(←我々の科学技術のレベの低さのため未解明の問題が山積していますが、それでもなお解明されたこともあるのだから)、それを手掛かりにして「分断の橋を架ける」取組みを、ソクラテスのようにもっと確信をもって取り組む必要があると思ったのです。
最後はちょっと駆け足になりましたが、これが私にとって、ハイエクの「古い真理を⼈の⼼に残そうとするなら新しい⾔葉で何度も⾔い直さなくてはならない」という意味です。
ひとまず、ライン開通の最初の挨拶でした。

2025年11月4日火曜日

【再開第1話】分断に橋を架けるための試み:ソクラテスの対話に倣って(25.11.5→6加筆)

 昨年5月に出版したブックレット「私たちは見ている」を再読しようとして、以下のことを思いついた。

再読の目的:それは分断に橋を架けること。
→チェルノブイリ法日本版が必要だと思って行動しようとする少数の人たちとそれ以外の大多数の人たちとの間に横たわる分断に橋を架けること。

その方法:それは馬の周りにまとわりついて刺し続ける虻(あぶ)のようなソクラテス、彼の対話をモデルにする。
→自説からスタートしないで、相手が拠って立つ見解からスタートする。 
 相手が信ずる命題を真実であると仮定して、そこから対話を始め、
 驚異としか言いようのない、倦まずたゆまぬ持続的対話の中で、とうとう矛盾に逢着することを示す。
 その結果、相手の命題が虚偽であることが証明され、分断の溝が一歩埋まる。
        ↑
 もちろん、ソクラテスの対話には以下の通り「限界」がある。しかし、その限界の無力さを嘆く前に、我々は彼の対話の衝撃力にもっと目を見張るべきではないか。つまり、彼の対話によって、人々はそれまで安心立命の中にいた自身の立場が何の根拠もない、不安定なものであることが暴かれた。頭の中がグジャグジャになり、心底、途方に暮れ、もはや二度と前のように安心して眠れなくなった。その状態はそれ以前の無知の中で惰眠を貪る状態より数倍前進したのだ。この震撼すべき事態をもたらした、馬の周りにまとわりついて刺した虻(あぶ)の一撃、そのインパクトに注目すべきだ。
その威力に驚嘆した者だけが初めて、次のテーマ「ソクラテスの対話の限界」をポジティブに捉えることができる。

ソクラテスの対話の限界について
しかし、そこからこちらの見解が真実であるかは必ずしも自明ではない。つまり、こちらの見解の真実性が明らかとなり、認識の分断の溝が埋まる訳ではない。ソクラテスも同様。彼も対話を通じて相手の信ずる見解が虚偽だと暴くことまでやるだけで、それ以上について何も分からないという立場を取る。
        ↑
当初、この態度が消極的に思えてすこぶる不満だった、なんでもっと積極的に自説の真実性を強調しないのか。なぜ、相手の見解の非真実性の前で立ち止まるのかと‥‥
しかし、のちに、この態度に十分訳があることに気がついた。ソクラテスの態度は「ものが分かる」ということの根本的な性格への理解に根ざしているのではないかと。
つまり、「ものが分かる」というのは実は、真実→真実→真実というひたすら真実について推理を辿っていく中で確かめられるのでは足りない(必要条件だけでしかない)、さらに十分条件を満たす必要があり、それが例えば、虚偽→虚偽→虚偽→破綻というひらすら虚偽について正しい推理を辿っていく中で破綻に至ることを示すソクラテスの批判=証明方法だったのではないか。
つまり、人が「ものが分かる」というのは、真実から辿るだけではなく、虚偽からも辿っていく必要があり、両者が相まって初めて、人は分かったと合点する。ソクラテスは自分の対話は、その「ものが分かる」ための一部を担当しているにすぎないと。
もしそうだとしたら、なぜ、彼は恐るべき熱心さ、執拗さでこの部分に集中して担当したのか。それには彼なりの確信があったはず。それは、虚偽→虚偽→虚偽→破綻を通じてこそ、人々は、ものが分かることを深く体験できるということではないか。現実世界の実情は、得てして、真実を辿る論理は単純だが、どこかリアリティに欠ける。これに対し、虚偽を辿る論理は複雑で、多種多様だが、しかしダイナミックで、その迫力はリアリティを感じさせる。それはヘーゲルが喝破したように、現実世界は運動・生成・変化、しかも「否定の否定」という運動・生成・変化の中にあり、従って、論理的にも、「否定の否定」という論理の中でこそ真実が最もリアリティももって捉えられるのではないか。

以上の教えを、チェルノブイリ法日本版で実践する必要があるのではないか。それによって初めて、 チェルノブイリ法日本版が必要だと思っている少数の人たちとそれ以外の大多数の人たちとの間に横たわる分断に橋を架けることが可能になるのではないか。

厳密には、 チェルノブイリ法日本版が必要だと思って行動しようとする人とそれ以外の人には、次の2つのグループがある。
①.チェルノブイリ法日本版が必要だと思っている人と思っていない人(認識の分断)。
②.チェルノブイリ法日本版が必要だと思って行動しようとする人と必要だけれど実現できるとは思っていない人(実践の分断)。
分断の次元がちがうので、別々に考える必要がある。

以下、①について書く。

 

 

 

 

【再開第5話】私にとって人権の二歩目:それは人権侵害に対し、「おかしい!」と声をあげ、抵抗すること、そのときに初めて人権が存在すること(25.12.5)

 以下は、私にとって人権の最初の一歩を経験したあと、二歩目の経験をしたことについて語るもの。5年前の2020年11月、新老年としての「過去の自分史」の1つを再定義・再発見したもの(> 当時のブログ記事 )。  ***************************  四半世紀前、...