石川・福井の方たちとの意見交換について、これは最初、私が石川や福井の方たちに相談してみたことなので、私からその趣旨について、少し書かせて頂きます。
1、私が、福井の一般市民の中に、私自身ほかには経験したことのないような、原発事故に対する深い恐怖心とそこからの救出に対する強い願いがあるのを感じたのは、昨夏、福井の日本版の学習会のときに、酒田さんから、署名集めのために、或る宗派のトップの方(その方は幼稚園の理事長もしておられた)にお話をしに行った所、その方が、
「もし福井で原発事故が起きたら、ここの子どもたちをどうやって避難させたらよいのだろうか、それを思うと夜も眠られない」
と言われたという、深い悩みの中におられることを知ったときです。
そして、こういう人たちの悩みに応えるのがチェルノブイリ法日本版(以下、日本版)の意義ではないかと、その時、日本版こそ福井の市民の人たちの願いに向き合えると確信したのです。
2、そしたら、今年元旦、能登半島地震が起き、志賀原発のモニタリングポストも稼動せず、その住職さんの悩みがあわや的中する事態となった時、私は、能登半島地震のような大地震はまたその周辺で起きると強く思ったのです。
その理由は、(新潟県長岡市生まれの)私自身、かつて中1の時、今でもその揺れの恐怖がトラウマになっている新潟大地震に遭遇した時、この巨大なエネルギーの放出のおかげで、あと百年は新潟は安泰だと俗論を信じて安心していたのですが、その安全神話はその後見事に覆されました。長岡は2004年に当時観測史上2回目の最大震度7を記録した新潟中越大地震に遭遇し、その3年後の2007年に、泉田知事も指摘したように、あわや柏崎原発の事故かと震え上がった中越沖地震に遭遇したからです。
これと同様に、石川、福井、新潟は次の大地震と原発事故の発生を想定した生き方を余儀なくされていると思ったのです。
そう考えるほうが合理的だと思ったので、であれば、原発事故発生に備えて何をすべきかについて、現実的な対策を検討することが合理的であり、大切ではないかと思い、石川、福井の現地の皆さんとそのことについて、どのように思い、考えているのか、率直な意見交換をしたいと思ったのです。
3、「原発事故発生に備えて何をすべきか」について私自身が言えることは、ひとえに福島原発事故の経験からそれを考えることです。
私自身、福島原発事故発生直後に思ったのは、専ら、どうやったら「見えない、臭わない、味もしない、理想的な毒である放射能に被ばくせずにできるか」でした。つまり、どうやって初期被ばくを避けるか、でした。
311直後は放射線について完全な無知の中にいましたが、その後、初期被ばくを避ける唯一最大の方法は、放射線による被ばくから逃げること=避難だと知りました。
しかし、問題はそうした一般論でなくて、事故直後に、どの方向に向かって避難するのが被ばくしないためにベストかを具体的に知ることです。そのためにどういう準備をすることが必要かを理解し、その準備を実行することです。
この具体的な問題について、かつてない痛切な教訓を残したのがチェルノブイリ事故と福島原発事故です。
4、チェルノブイリ事故では、政府は周辺住民に汚染状況を知らせなかったのですが、事故から3年後に以下のような汚染地図が公開されてしまい、そこで、多くの避難者がせっかく避難した北東部(ゴメリのような地区)が、避難元よりも高濃度に汚染されていたことを知りました。その怒りが、チェルノブイリ法の制定につながったのですが。
5、この過ちは福島原発事故でも反復されました。事故直後の3月12~15日に、浪江町の住民らが北西部に向かって一生懸命避難したとき、まさにその方向に高濃度のプルームが原発から放出され、この住民らは取り返しの付かない初期被ばくを余儀なくされたのです。しかし、それは被ばくしなくてもよい、避けられた人災でした。
もともと日本政府は、原発事故を想定した対策を立てており、
(1)、原発周辺にいくつものモニタリングポストを設置し、汚染情報が把握できる体制を整備していた。
(2)、福島原発から5キロの地点(大熊町)にオフサイトセンター(原子力災害対策センター)を設置。「オフサイト」とは、原発の敷地内である「オンサイト」から離れた場所という意味で、そこで、現地対策本部として対策の指揮を取る体制を整備していた。
(3)、モニタリングポストやオフサイトセンターに集まる現地の放射能の測定値をもとに、SPEEDIが原発から放出された大量の放射性物質が拡散する方向や放射線量を予測して、住民の安全な避難に必要な情報を提供する体制が整備されていた。
(4)、被ばく者のスクリーニング(放射性物質が衣服や体の表面に付いているかどうかを調べること)や治療についても体制が整備されていた。
6、ところで、問題はこれらが実際にどう機能したか、です。結論を言うと、
(1)、原発周辺に設置されたモニタリングポストの多くが作動しなかった。
(2)、オフサイトセンターは完璧な機能不全。停電の上、非常用の電気も起動せず。FAXも使えず、衛星電話も数回に1度きり。
おまけに、当初、参加予定になっていた文科省、厚労省の医師らが東京からやって来ない。さらに2号機の爆発のあと、線量が急上昇、14日20時には撤退を決定。内掘副知事ら第1陣が出発するや、残留予定の100名が半分に激減していた。来るのは命令しても遅いし来ないが、去るのは命令しても目に止まらぬ早業で消えてしまう。にわかに寄せ集めた行政組織(現地対策本部)は機能不全で、事実上、壊滅、解散状態。
(3)、SPEEDIで計算された情報も速やかに提供されず、そのため、飯館村方面(北西部)に避難した住民は高濃度の無用な被ばくを強いられた。
(4)、スクリーニングの基準値が、医師が足りない等の理由で13,000cpmから100,000cpmに引き上げられた。治療も福島県立医大は医療器具は包帯くらいしかなく、むしろ遺体の収容準備をしていた。体育館は野戦病院になると宣告される。
7、以上の実態を報告した文書が、
SPEEDI問題:子ども脱被ばく裁判で提出された児玉龍彦医師の意見書
https://www.dropbox.com/s/cbn3jjfa2ttb6ef/%E7%94%B2C45_1.pdf?dl=0
オフサイトセンター崩壊(6)
https://tansajp.org/investigativejournal/8167/
後者には、事故直後のオフサイトセンターの実情を再現しています。また、三春町の写真家の飛田さんがオフサイトセンターに入って撮影した写真も掲載されており、行政の職員らが慌てて撤退したままの状態が写し出されています。
要するに、初期被ばくを避けるために必要な措置とシステムは、ひとまず、行政の手によりすべて揃っていた。しかし、いざ原発事故が発生するや、想定外の事態となり、システムは殆ど全て、人も装置も機能不全、作動しなかった。その結果、住民は本来、避けられた無用な初期被ばくをさせられた。
これが福島原発事故が残した痛恨の教訓です。
8、ところで、この「初期被ばくを避けるために必要な措置とシステムを行政の手に委ねる」のが根本的な間違いである。そう指摘したのは、
2017年5月に日本版の呼びかけ(原文は
ー>こちら)をネットでやったときに、そのよびかけに最初に応えてリアクションをくれた人でした。日本人ではなく、米国人です。
その人は、45年前、スリーマイル島原発事故で被ばくした大学生でした。その時の一生涯の痛恨事から、原発事故発生直後の放射能汚染状況を市民が自ら測定し、これを踏まえて正しく避難、対処する必要性を私たちに伝えてきたのです。チェルノブイリ法日本版には事故直後の汚染状況を市民が正しく知るために、市民自身による自主的測定ネットワークの創設が盛り込まれる必要がある、と。
9、この教えを受けて、日本版の学習会では、この市民自身による自主的測定ネットワークの創設を訴えて来ました。
調布の2019年10月26日の学習会で、
新しい段階に入った市民立法「チェルノブイリ法日本版」の学習会、その最初の一歩の記録として、以下の取組みを訴えました。
チェルノブイリ法日本版の次の再定義。
【単一法ではなく、総合法・集合法としてのチェルブイリ法日本版】
チェルノブイリ法は「避難の権利」の保障を中心に制定された。
しかし、「福島の現実」に照らし、それだけでは不十分。
例えば健康検査。この仕組みを形式的、一般的に定めてみたところで、福島の県民健康調査の実態に照らしてみた時(※)、このような検査では汚染地の住民、子どもたちの命、健康を十分に守る検査にならないのは明らか。
→「福島の現実」を反復しないために、
「福島の現実」から徹底して学び、それを最高の反面教師にして、何をどう改めていったらよいか、徹頭徹尾、検証し直す必要がある。
その検証を踏まえて、「避難の権利」の中心として、その周辺に、住民の命、健康を守るために必要かつ十分な以下の様々な仕組みを提案していく必要がある。
10、当時は、私の新たな問題提起にとくにリアクションがなかったのですが、今回の能登半島地震で、石川、福井の市民の中から、この問題を共有できる条件がそろったように感じています。
4日は、以上について、活発な意見交換ができたらと思っています。
よろしくどうぞ。